投稿者「林英紀」のアーカイブ

広島、呉のサクラダファミリア、ナゥ

大工は、昭和の車博物館の天井、垂れ壁の下地。左が終わり、右の展示室

着物博物館、展示シリーズ11

芹沢銈介

1番有名なのは?

この、いろは文字

着物にもなっています

これは当館にはありませんけど

字体は、同じです。

いろは、それぞれの文字には絵がついています

この屏風も、貴重ですが、広島市には、4階建ての建物、そっくり芹沢銈介の作品で埋め尽くされているレストランがあります。

それは— ヒロコシ本店

この、春夏秋冬は、いろは・・・と、同じ位有名

1階入口には

壁にかかっています

2階は、もっと凄い!

各部屋の、暖簾が全部、芹沢銈介、多分一枚一枚特注!

 

まるで、芹沢銈介レストラン!
しかも、河井寛次郎の花瓶なんかも、そこら辺の棚に、ぽんと置いてあります。

民芸の館でもあります。

芸術品に囲まれての食事。おまけに、味もサービスも抜群です。

バブル時代が、そのまままだ存在しています。

広島にいらしたら、是非!
「ヒロコシ本店」と!

なかなか予約が取れないですけど〜

 

広島、呉のサクラダファミリア、ナゥ

大工は、昭和の車博物館、天井の垂れ壁。扇風機の風にあたりながら

ペンキ屋は、着物展示ケースの外枠、2回目塗り終わり。これから細かいペーパーかけ、3回目に入ります。ロールスロイス、センチュリー並の鏡面仕上げまで、4〜5回塗り? 日本で唯一、ロールスロイス社に認定された、綿引自動車の心意気が必要です。

さて、その着物博物館、展示着物11

芹沢銈介

1895静岡の呉服屋に生まれる
1916現東京工大、工業図案科卒業
1927、柳宗悦の民藝運動に感銘
1928、沖縄の紅型に出会う
1939、沖縄に行き、紅型の技法を学ぶ
1949、多摩美大教授
1956、「型絵染」重要無形文化財(人間国宝)に認定
1976、フランス政府から招聘され、パリて展覧会開催
1976、文化勲章

沖縄の紅型に基礎を置く、独自の世界

着物だけでなく、いろんな日用品のデザインにも携わっています。

テーブルクロス

風呂敷

座布団

お皿

和紙への、美しい型染!
何に、使いましょう?
このまま、額装しても良さそうです。100年前の螺鈿の机の上にに置いても、見劣りしません!

先程の、夏座布団のこのデザインは、結構有名です。
しかし、もっと有名なのがあります。

 それは、次回!
 請うご期待‼︎

芹沢銈介氏、着物作家としても、工業デザイナーとしても、天才です。

広島、呉市のサクラダファミリア、ナゥ

大工は、昭和の博物館の天井。

北酒蔵の仕切り壁、扉出来ました。遅いけど、いい仕事する、建具屋

ペンキ屋は、着物博物館の展示ケースのペンキ塗り、今2回め、これが乾いたら、ペーパーかけて、仕上げ塗り。漆塗りの風合いを出します

ところで、展示着物シリーズ⑩

沖縄紅型、前回続き、城間栄順

300年続く紅型城間家15代目

紅型振袖

伝統の美しい模様と、色使い

カメラの影入ってすみません

カメラの影入ってすみません

前々回紹介した吉岡幸雄氏は、紅花が手に入らないので、東北地方の農家に頼んで、作らせているそうです。ただの赤い布ではありません。

人間国宝、玉那覇有公氏の義兄弟、城間家の跡取り。おそらくこの方も、将来は人間国宝

今日のFhロイスブログ

大工、足場を組んで、昭和の車博物館野天井、石膏ボードの下地。

着物博物館展示⑩

紅型初の人間国宝、玉那覇友公

紅型は、沖縄の伝統的着物。沖縄県指定無形文化財です。

正確で美しく、独特の柄行きの繰り返し。

玉那覇有公(1936〜)氏、1996重要無形文化財(人間国宝)に指定。
1998紫綬褒章受賞
2000九州・沖縄サミットでは、各国首脳の前で紅型製作実演

1961より、沖縄紅型第一人者の城間栄喜氏に師事。長女道子さんと結婚。

300年続いた沖縄紅型、14代城間栄喜の父城間栄松は、戦前に極貧の中、伝統の紅型を守り抜く。栄喜氏は、米軍の爆撃と艦砲射撃で、焼け野原の中、紅型の復興に尽くした人。

栄喜氏娘婿の玉那覇友公氏は、その芸術性を日本全土だけでなく世界に承認されるようにします。

栄喜氏の長男、城間栄順氏の着物は、次回紹介します

広島、呉のサクラダファミリア、ナゥ

笹子島、昭和の車博物館に戻りました。天井の下地作り。気温35度の中、熱中症に気をつけてください。

エアコンの中で仕事出来る人間は、幸せです。

着物博物館展示シリーズ⑨

加賀友禅、唯一の人間国宝!

木村雨山

雨山(1891〜1977)振袖。しかも、未仕立て! 湯通しもしていない!

何処の友禅染にも見られない、唯一無二の、自由で美しい柄行きと色使い!

1934 帝展特選
1937 パリ万国博銀賞
1955 無形文化財
1966 紫綬褒章
1976 勲三等瑞宝章

帯もあります

いずれも、新品です

これを見ると、柄が細かく、緻密という、加賀友禅さんイメージが変わります。

加賀友禅はもちろん、京友禅の中でも、この柄と色は、独特です。

 

大工は、笹子島昭和の車博物館、改装に戻りました。
 手前がマツダ館、展示車両:キャロル、ファミリア、ファミリアクーペ、ルーチェロータリーの予定。
 向こう側が、トヨタ館:カローラ、スプリンタークーペ、コロナ、クラウンの予定。

 全てほぼオリジナル。昭和40年代前半のものです。

 しかし、今のペースではいつになるやら? なにしろ、自分達で「サクラダファミリア」と、言ってるんですから。

さて、帝王紫⑨

自然染料のみを使い、古来からの色を再現して来た。染司4代目吉岡常雄氏、5代目幸雄氏。多くの書籍が出ています。1988に常雄氏、2019に幸雄氏が亡くなり、今は6代目更紗氏の時代になりました。

 世の中に、「帝王紫」と名打った帯や着物が、ほんの数万円で売っています。しかし、これらのほとんどは、「帝王紫色」の紫で、貝のパープル腺からの抽出液だけで染めたものではなく、新技術:化学合成されたものがほとんどであると、思われます。
 吉岡幸雄氏から、液の供給を受け、友禅染を作っていた晃永衣装、「一着作るのに、5〜6年かかる。めちゃくちゃ高価になるし、そんなもん買う人、滅多にいまへん」と、言っています。

 当博物館に展示予定の、吉岡常雄氏初期の帯。吉岡帝王紫-晃永衣装、の落款入りの着物2点、これは貝紫だけで染めた本物です

北、南酒蔵間の部屋

上の部分、これから、ラス→モルタル→漆喰仕上げ

そのあと、焼杉下に貼ります。それはまだ先

帝王紫⑥
吉岡帝王紫

日本で唯一、ロールスロイス社から認定書を貰った綿引自動車。ロールス、ベントレーの全塗装に1年間かかりました。
 チリ1つない部屋で、塗装→自然乾燥2〜3カ月→バフかけ、この工程を5〜6回繰り返す。
 漆塗りも、同じようなものです。

だから、1つの着物作るのに、普通の10倍くらい、時間がかかりました。

この色留で、6年。

最高峰、2000万以上で売られたこの訪問着で、10年以上。

バブル当時、1千万以下の着物は作らないと言われた、京都晃永衣装。帝王紫染料を、後にもまったく匂わないように、自然乾燥させるので、1着最低5年はかかっていました。
 だからこの、吉岡幸雄-京都晃永作の着物は、10着もありません。
 おまけに、天然染料で美しく染める事に半生をかけ、数々の賞に輝いた、吉岡幸雄氏も2019年に他界します。

これは、吉岡家が残した、最高の作品と言っても、過言ではありません。

帝王紫⑤

吉岡常雄氏が三重県から取り寄せた、イボニシ貝のパープル腺から取り出して染めた帝王紫。
京都のJ織元が、T百貨店の上品(じょうもん)会と言う展示会で、当初は数百万の値段をつけて売り出す。これが話題となり、多くの注文がはいり、吉岡常雄氏は、大型冷凍庫を購入して、これに応えるようにする。中には糸染めて帯にするだけでなく、着物への絵の注文も入る。
 しかし、この多く作り出した帯や、素描の着物の中には、「タンスに入れておくと、変な匂いがする」と言うクレームがつくものが、出てくる。
 そして、T百貨店はJの帝王紫帯の販売を中止、吉岡常雄氏も亡くなる。

 その後を継いだのが、染司5代目、吉岡幸雄氏。幸雄氏は、当社染屋を継ぐのが嫌で、1971年早稲田大学文学部に、入学。次男さんが、5代目を継ぐことになっていた。

常雄氏初期の帝王紫

吉岡幸雄氏は、常雄氏の紹介である会社に入るが、勤人生活が合わず、自分で美術図書専門の出版社:紫紅社を1973に設立、成功を収める。
 しかし、染屋を継ぐ予定の次男氏から、「僕はこの仕事に合わないので、兄貴に返す」といわれ、1988年に染司5代目当主を継ぐ。91年に着物文化賞受賞、その後、薬師寺、東大寺の技楽装束を、完全に天然染料を使って製作。
 染司よしおかは、代々天然染料を使い、化学染料にも劣らぬ鮮やかさを作り出す染屋であった。しかし常雄氏の帝王紫は話題を呼び、貝から取り出した染料のみを使ったのではない、帝王紫が巷に出始め、J織物もその波に呑まれてしまう。
 そこで、吉岡幸雄氏は、J織物と袂を別れ、当時京都で最高級の着物だけを作っていた、晃永衣装と独占提携し、染料を納める。

それが、これ

この訪問着、製作に10年の歳月がかかっている。

帝王紫に染めた糸と、友禅染。

ぼかし染

染め、手の込んだ刺繍

晃永衣装は、吉岡幸雄氏から、パープル腺から抽出した液を、直接購入。糸を染めたり、友禅の色挿しに使ったり、刷毛染めしたり、薄くして桶染に使ったりした。

これは、別の色留。生地全体を薄めた貝紫の桶に浸けて染めている。

素晴らしい金駒刺繍で囲まれ、染まってない部分と、染めた糸の刺繍

とにかく、年月をかけて、ゆっくり自然乾燥させることか、後に匂わない秘訣。

従ってこの、吉岡帝王紫と晃永衣装の落款の入った着物は、世に10点もない。

先の訪問着は、その最高峰。
刺繍も、最高の職人が手がけている。

超貴重品

2000年の歴史ある貝紫。ひたすら、しっかり乾燥させて次の工程にはいり、10年越しで作られたと思うと、一見の価値がますます湧きます。

紫帝王④

吉岡常雄氏は、京都で3代続いた染屋の次男、兄は日本画家の吉岡堅ニ氏。群馬大学染色学科卒業。戦後より染色家となり、当初はモダンアート②傾倒するが、昭和41年、51才から貝紫に関心を持つ。
 まず奄美大島のアクキ貝科ノヒロクチイガレイシから、貝紫の再現に成功。
 昭和43年、ナポリ湾の貝から貝紫の再現に成功。
 レバノン、昔はフェニキアで、アクキ貝科の貝塚発見。
 メキシコ、ペルーでもその存在を確認。
 染色家としては、徹底して天然染料を採用し、正倉院、東大寺、薬師寺の古裂を再現。祇園祭り山鉾の布、辻が花染の再現も行う。
 最後は、大阪芸術大学名誉教授として、生涯を閉じる。

 この吉岡常雄氏が、自ら三重県から取り寄せた、イボニシ貝のパープル腺から取り出した液のみで染めた、帝王紫の帯が、当時極めて高価であったのは、理解出来る。

しかし、帝王紫が話題となり、人気が出るに従い偽物も多く出る

新技術とこの記述にあるように、もう化学的に、合成されている

これは、吉岡常雄氏が、40年前、貝のみで染めた、本物の帝王紫です。天然染料にしては、澄んだ色です。
 
化学染料に比べて天然染料は、色がくすんでいるのが当たり前ですが、吉岡常雄氏、息子の5代目幸雄氏とも、鮮やかな天然染料を生み出す努力を怠多らなかった人達です。
 それにいくらコストが、かかっても

帝王紫(貝紫)③

吉岡常雄氏、この本の中に書いています

貝紫を染料に使ったのは、地中海、メキシコ、ペルー、日本

地中海のアッキガイ科の貝

遺跡からも、多数出土

これが、パープル腺。これ2000個で、染料1グラム!

この液で染めて、紫外線に当てると、赤みがかった綺麗な紫色になる

しっかり乾燥させないと、異臭が残る。2000年前のフェニキアのある町は、異臭が充満していたそうです。

その後、帝王紫の帯の異臭騒ぎが起きたのは、乾燥が不十分だったと、考えられます。

人気で、需要に供給が追いつかなかったのかも?

かくして、天然染料に生涯をかけた、染司4代目吉岡常雄氏は1988年8月、心不全で亡くなる。72才。

5代目、吉岡幸雄氏の話は、次回