投稿者「林英紀」のアーカイブ

広島、呉のサグラダファミリア、ナゥ

北、南酒蔵間、外装完成! 下は倉橋産議院石(桜御影)貼りましたが、表面ノミ手打ちなの、また白っぽい。焼杉同様、年月経たないと、なじみません。

北酒蔵1階中では?

天井からの、着物吊り手を加工中

こんな感じ

さて、展示着物シリーズ、6月9日の続き②、総刺繍続き

やはり黒地、一部友禅入り

目の詰まった手刺繍

2連14列の金駒刺繍

一流の職人が、数年かかって仕上げた。バブル時代だからこそ、こんな着物に需要があった。

バブル時代は、着物業界でも、金に糸目をつけない、最高の物が作られた時代です。

広島、呉のサグラダファミリア、ナゥ

焼杉、うち終わりました。後、下にモルタル塗り、手打ちの議員石(桜御影)貼ると完成

着物博物館

本宅ある場所に仮展示しています。 
 博物館オープンは、来年になりそうです。何しろ、サグラダファミリアですから〜

着物総計は、ロールスロイス総計を、上回ります

 

 

広島、呉のサグラダファミリア、ナゥ

北、南酒蔵間、焼杉打ちました。

左ナゥ、右87年経過。右は木が痩せて、木目が浮き出ていて、味わい深い。

着物博物館展示着物。振袖シリーズ3

染めの北川、振袖!

独特の美しさで、いつも着物の雑誌等に掲載されていました。

美しい色と、柄!

友禅の輪郭も鮮明で、刺繍が無くても、高級感に溢れ、華やかです。

1955創業、逸品物の京友禅のみを作り「染の北川」として、着物業界では、確固たる存在で1999には売り上げ25億!

平成29年に廃業しました。白生地に印刷して「京友禅」として大量に振袖を作る会社には、太刀打ち出来ませんでした。

自社でネジ迄作り、エンジンは手組み、最高級の革やウッドを使って熟練職人が内装を仕上げ、1億かけて作った車を5000万で売った、ロールスロイスモーター社が、名前だけ残して消えたように〜

また、日本文化の火が一つ消えたような気がします。

 

哀愁の漂う、美しさ

今日の、広島、呉、サクラダファミリア

北酒蔵、新しく作った壁に棚をつけています。着物博物館にするため、機材のおく場所がいるためです。建具屋と大工の共同作業

南酒蔵は、

天井高、3m 30なので、一部中2階構造にして、段ボール箱等置く場所作ります。

ペンキ屋が、北南酒蔵間の部屋床を、レンガ色に塗りました。

灘で勉強して帰った三浦仙三郎は、清潔な環境で酒造りをする必要性に、気付壁を漆喰塗り、床をレンガ敷きにしたわけです。

従って、明治大正花嫁衣装博物館、第二展示室床は、レンガ敷となります。

腐造に悩んだ三浦仙三郎、こうして蔵を清潔な環境にしても、なお腐造を出してしまいます。映画でそのシーンをここで撮りました。

 さて、何故でしょう?

 この答えは、このブログの最後に〜

さて、着物博物館展示着物14

前回、越後上布だったので、

宮古上布

白地

白地に柄が織り込まれていると、いう事は、染める時、殆ど糸は括られていると、いう事。

下の柄が透けているくらい、薄い!

越後上布は、「ある植物の花茎」と、前回言いましたが、宮古上布は、正真正銘の、苧麻の繊維。1m位の茎の1番いい所を手でさき、繋ぐ。繋ぎ目がスムーズになるように繋ぐのが至難の業、これは、越後上布、芭蕉布も同じ。芭蕉布の、平敏子の糸取りを見た評論家が「神業!」と、思わず唸ったと、前々回書きました。昨年、平敏子氏は101才で亡くなりましたが、後にも先にも、これ以上の糸を取れる人はいないし、現れないと、言われています。

前回のと違う、平敏子氏の芭蕉布、前回のは2色ですけど、これは3色。指が透ける細さと、均一さ! 平敏子氏しか出来ません。

宮古上布、普通でも糸取りに半年。この細さと均一さとなると、最高の職人でも、2〜3年かかります。この模様出す為の括り染めに、最高の職人でも5〜6年かかります。
 従って、売値は2000万以上と、なります。

男物宮古上布。この紺地が普通。

この糸の細さと、生地に薄さ。100年まえのもの。晃永衣装のお祖父さんか着用してた。下に、麻の長襦袢つけて着ると、風が通り、裸で歩いているみたいです。
 おまけに蝋引きされてるので、汗も滲みません。

こんな43年前に亡くなった、S氏作。これ以上細い糸取れる人は、それ以後現れていません

江戸縮緬といい、紅花染長襦袢の薄い生地といい、昔の日本人の手仕事は凄い?

秘書が、パルテノン神殿プラモデルに、挑戦!

元々、週2回此処に来ていた、横地氏が「私がやりたい!」と、言ってたやつ

しかし、横地氏は呉市市会議員でトップ当選し、忙しくてできなくなりました。

そこで、若い秘書が始めたわけです。

今日、半日でここまで。なかなか器用ですね。さすが、デザインの専門学校でてるだけのことは、あります。

 しかし、これも、サクラダファミリアです。

さて、今日の長いブログに付き合って頂き、ありがとうございました。

 三浦仙三郎が、蔵を漆喰壁、レンガ敷き床にして、清潔な環境にしても、作った酒が、腐った訳………

それは、灘の地下水は、ミネラル分の多い、硬水。広島の水は、それが少ない軟水だからです。ミネラル分が少ないと、雑菌が繁殖しやすい。
 ある科学者の講演を聞いて、それを知った三浦仙三郎は、自分で工夫して「軟水醸造法」を見つけます。
 明治40年。日本で初めての全日本清酒品評会が、開かれる事になった時、全国の人は、当然「灘の酒が上位を占めるだろう」と、思っていました。

 しかし、蓋を開けてみると、竹原藤井酒造の「龍勢」が一位、
倉橋町我が林酒造の「三谷春」が二位、と、広島の酒が上位を占めました。

 当林酒造では、100年以上変わらぬやり方で酒造りし、今年は、三谷春大吟醸が、県で一位、国で金賞。その大吟醸と、倉橋産完熟梅、和三盆が使った梅酒がフランスで金賞となりました。

今日の、広島、呉のサクラダファミリア

明治・大正の花嫁衣装博物館、第二展示室、要らないもの整理。
217年使っている井戸は、新しい枠作りました。

外は?

壁の漆喰塗り。やはり酒屋は白壁でしょう。

先代が、崩れかけた壁を、板なんちゃってトタンで、カバーしていました。

そう、そう、大失敗!がありました。

140cm×190cm×40cmの着物展示ケース、巾1mの廊下、70cm×180cmの開口の部屋に、どうしても入りません!

そこで↓

一旦分解して入れる羽目に!
ペンキ屋は、2度手間です。

さて、展示着物シリーズ13

越後上布

宮古上布と並んで、夏物の最高峰!

風通しが良く、薄く、均一な生地。精緻な柄

越後上布で、ここまでの物は、軽く1000万を越えます。

その理由は、国文化庁指定重要文化財!
 誰彼でも作れるものではありません。厳しい条件が課せられ、全部文化庁がコントロールしています。

原料は、苧麻、という事になっています。

ウィキペディアでも

しかし、私が「なっています」と、表現したのは、表向きの話:パブリックには、です。

実際は、ある植物の花茎を使います。花が咲き実がなった後、30〜50cmの繊維を取り出し、繋ぎ、捻をかけながら糸を紡ぐ。
 この全て手作業の糸取り作業は、結城紬、宮古上布、芭蕉布等と並ぶ、辛抱仕事です。
 ある時、外国人にさせようとした所、続かなかったそうです。
 この、糸取り、糸括り、いざりはたおり、は日本人の辛抱強さと、根気のなせる技かもしれません。

 さて、着物業界の人間なら、誰でも知っている、越後上布の真の材料は?

 来館者様に、こっそりお教えいたします。

その植物、何本植えたか?全部、文化庁への報告義務があるそうです!

今日の、広島、呉、サクラダファミリア

北蔵1階、明治、大正、花嫁衣装博物館第二展示室。要らないもの整理しました。ここは、映画「吟する者たち」で、灘から帰った三浦仙三郎(主演中村俊介)が、床をレンガ敷きにし、壁を漆喰塗りにして、酒造りをするシーンを撮った所。

「吟する者たち」
いい映画なんですけどねー
思ったほど、ヒットしませんでした。

中を整理しました。ここは天井か高いので、2段に展示できそうです。南蔵2階が50点なら、ここは100点?

北南蔵間

トイレ付きました

外側は?

モルタル下地の後

漆喰の軒天完成、壁は中塗り

白い防水シートのところは、昔ながらに、杉板を黒く焦がして打ちます。

その下は、呉石材の桜御影、大阪城の石垣と、国会議事堂と、同じ御影石です。

大切なのは、職人の手仕事、コストは関係ありません。

さて、着物博物館、沖縄紅型⑩
 城間家14代目、城間栄喜氏、続き

焦土と化した沖縄から、立ち上がり、紅型を復興させた、城間栄喜氏。昭和24年、現在保存される事になった被服省の向かいの民家で生まれた、筆者にとって殊更親近感が湧きます。

 沖縄紅型を復興させ、次第に人々の注目を浴びるようになり、城間栄喜氏の元には、画家の末吉安久、大城貞成、屋宜元六、森田永吉が、紅型を習いに来た。
 米軍支配の元、資材も不足、高価な着物を買える人もいない中、ネクタイ、スカート、手提げ袋、パラソル、テーブルクロス等、日用品をつくり、米軍軍族や、本土からの観光客にも販路を拡大する。
 栄喜氏は、復興させた沖縄紅型の技術を広く公開し、1963沖縄タイムス文化賞を受賞。

 しかし、沖縄紅型を習い、独自の型染世界を展開した、芹沢銈介氏。栄喜娘婿の玉那覇有公氏が、人間国宝に指定されたのに対し、いわば無冠であり、筆者の納得行かない部分を感じる。

筆者は、この本に載っているのより、ずっと美しい栄喜氏の紅型振袖を、2点見た事があります。いつか?探し出して?展示したいと、思います。

酒屋では、

杜氏が、瓶詰。事務のお姉さんがラベル貼り。ここも、昔ながらの手作業!

広島、呉のサクラダファミリア、今日

昭和の車博物館、トヨタ館、天井根太、着々と

着物博物館、沖縄紅型⑩に、戻ります

1908生まれ。沖縄紅型、三宗家の一つ、城間家14代目。宗家とはいいながら、父の栄松が極貧で、13才で父の借金の肩代わりに年季奉公に出される。20才で年季明け、紅型の仕事にかかる。
 栄松は、極貧の中、伝統の紅型2000枚は、売らずに残していた。しかし、栄喜が、制作に入り9ヶ月で栄松は亡くなる。
 34才、大阪に染料を買いに行った所、そのまま航空機工場に徴用。
 36才、招集を受けて、福岡の航空隊配属となる。
 37才、妻ウシ戦死、石畳道を挟んで石垣に囲まれた赤瓦葺きの家が立ち並び、柳宗悦をして「日本一美しい城下町」と言われた、首里の街も焦土と化す。
 昭和22年39才、学童疎開で熊本にいた、長男栄順と次男真勝を探しあて、瓦礫が山と積まれ、テントが立ち並ぶ、首里に帰る。栄松が残した、紅型2000枚は当然なく、大阪に持ち寄った紅型50枚が、全てであった。米軍に使われるのが嫌で、首里山川に建てたテントで、得意の釣りで釣った魚を売って暮らした。
 ある時、紅型の古裂で縫われた、継ぎはぎのスカートを着た女の子に出逢い、跳び上がらんばかりに喜ぶ。その子家まで着いて行き鼻緒などになっている古裂を分けてもらい、道具さえあれば、紅型作りは再開できると、米軍使い古しの刃物など使い、道具作りから始める。
 昭和27年頃より、次第に有名となり、画家などが紅型の勉強に訪れるようになった

今日の、広島、呉のサクラダファミリア

大工は右の、昭和の車博物館の天井根太。ここは、トヨタ館予定。ちなみに、左側は、マツダ館。いずれも、昭和40年代前半の車達です

林酒造、北南酒蔵間。

左官が漆喰塗り。

北蔵、酒造部と博物館の仕切壁。所謂、漆喰大壁です。左官さん、いい仕事しています。

建具屋の作った吊り戸、90年前のと、同じ様式

さて、着物博物館展示シリーズ12

人間国宝、平敏子、芭蕉布

1921 沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉出身
1944 沖縄県勤労女子挺身隊に参加、岡山県倉敷市の航空機工場勤め
1945 沖縄文化に造詣深い、倉紡社長、大原総一郎(大原美術館創始者)が、沖縄の織物文化を残す事を思い「織物勉強会」発足させ、それに参加。種々の織物の指導は、外村吉之助から受ける。
1946 大原総一郎から、「沖縄の織物文化を守り育てて欲しい」と言われ、沖縄に帰る
1947 喜如嘉では、マラリアを媒介する蚊の発生源と、芭蕉畑がアメリカ軍に切り倒されていたが、山に自生している芭蕉から繊維をとって、細々と芭蕉布が織られていた。
 従来の布だけでは、生活に困窮するので、アメリカ軍関係者用に、テーブルセンターや、ランチオンマットなどに用途を広げ、デザインも工夫した。
 軍関係者の間で、上質の織物として、徐々に有名となる。
1950〜60金銭的に、最も苦労「喜如嘉芭蕉布工業組合」設立
1973 女性で2人目の「現代の名工」に、選ばれる
2000 重要無形文化財「芭蕉布」保持者:人間国宝に、認定

1965 沖縄タイムス文化賞を受賞した時、大宜味村の有志が、記念品の贈呈に何が欲しいか?平敏子氏に聞いたところ
「心を映す鏡が欲しい」
と答え、その鏡は自宅の玄関に飾られ、敏子氏は、毎朝この鏡に向かい 
「今日も嘘偽りのない仕事をさせてください」と誓うそうです。
2022年9月、自宅で亡くなっているのを発見される。101才

芭蕉の繊維を手作業で1本1本ほぐしてつなぎ、手で捻を入れながら糸にする。そして、この細さ‼︎

これを見た、ある評論家が、「神業‼︎」と、感激。

先に紹介した、6色200亀甲の、この結城紬の糸に、負けない、神業です

紅型に、芭蕉布、素晴らしい、沖縄文化です。しかも、全土焼け野原から、復興したものです。

沖縄人の心意気を味わいましょう

芹沢銈介追加

今日の、美の壺でも、紹介されていました。

芹沢銈介は、全ての日用品に型染の美を応用しました。

 しかし、300年続き、あれだけの戦禍を浴びながら、伝統を守った城間家、その流れを汲む玉那覇有公氏、より芹沢銈介氏が先に人間国宝になったのは、着物ファンで、創業217年の酒屋を守る筆者としては、少し疑問に感じるところがあります。 
 人間国宝の指定は、政治家の力も関係するという説もあります。
 同じ民芸でも河井寛次郎氏は、人間国宝の指定を固辞しています。それも5回!
 「やきものは、私1人で出来るものではない。手伝ってくれる人も一緒に指定して貰えるなら、受けます」と、
  
 こんな人柄を反映してか、河井寛次郎の作品は、人間国宝のハクが無くても、未だに人気があり、高値で取引されています。

広島、呉のサクラダファミリア、ナゥ

大工は、昭和の車博物館の天井、垂れ壁の下地。左が終わり、右の展示室

着物博物館、展示シリーズ11

芹沢銈介

1番有名なのは?

この、いろは文字

着物にもなっています

これは当館にはありませんけど

字体は、同じです。

いろは、それぞれの文字には絵がついています

この屏風も、貴重ですが、広島市には、4階建ての建物、そっくり芹沢銈介の作品で埋め尽くされているレストランがあります。

それは— ヒロコシ本店

この、春夏秋冬は、いろは・・・と、同じ位有名

1階入口には

壁にかかっています

2階は、もっと凄い!

各部屋の、暖簾が全部、芹沢銈介、多分一枚一枚特注!

 

まるで、芹沢銈介レストラン!
しかも、河井寛次郎の花瓶なんかも、そこら辺の棚に、ぽんと置いてあります。

民芸の館でもあります。

芸術品に囲まれての食事。おまけに、味もサービスも抜群です。

バブル時代が、そのまままだ存在しています。

広島にいらしたら、是非!
「ヒロコシ本店」と!

なかなか予約が取れないですけど〜