投稿者「林英紀」のアーカイブ

4.ロイス自動車製作に興味

 フレデリック・ヘンリー・ロイスが車に興味を持ったのは、1902年である。30代最後のこの年、父の会社の倒産と病のため9歳から働き始め、15歳で就職、寸暇を惜しんで勉学に励み20才で起業してずっと働いてきた、という無理がたたりロイスは病に倒れる。医者に転地療法を進められ、長期療養中の足として、フランス製のドコーヴィルという車を買った。当時イギリスは、車に関しフランス、ドイツ等に対して大幅に後れを取っており、国内には実用に耐える自動車は無かったためである。
 これは、1896廃止されるまで存在した「赤旗法」の仕業である。1763年、7年戦争でフランスに勝ったイギリスは、世界中に植民地を有し大英帝国として覇権を握った。植民地からの豊富な物資、資本の蓄積、社会基盤の整備などから、産業革命が起こった。これでさらに経済的に繁栄し、町中に乗合、個人、貨物などの馬車があふれていた。19世紀に蒸気自動車が乗合自動車として登場すると、その騒音、煤煙などの公害だけでなく、ボイラーの爆発事故や、馬たちを驚かせ暴走するなどの問題、また乗合自動車に客を奪われた乗合馬車事業者からの圧力等により1865に「赤旗法」が制定される。これは、自動車が走るときは、前を赤旗保持の随行員が歩き、車の到来を知らせながら走行するというもので、当然スピードは出せない。
 フランスでは、ゴットリーブ・ダイムラーから技術を得て、プジョー、パナールなどのメーカーが1880年代から台頭していた。特にパナールは1890年代に、フロントエンジン・リアドライブ方式を考案し、現代の車の原型を作ったメーカーで、現在は軍用車両の生産をしている。
 さて、ロイスがロンドン・ロード・マンチェスターの貨物駅で受け取ったドコーヴィルの車は、どうしても動かず、4人の男に頼み、クック・ストリートにある彼の事務所まで押してもらった。
 これで自動車に興味を持ったロイスは、その天才たる所以の飽くことなき好奇心に駆られて詳細に調べ、このドコーヴィルを含めた自動車の機構に、あまりにも誤りが多いことに驚いた。そこで、その機構の問題点の解明にのり出し、自分で自動車を作るべきだと考えるようになった。
 そのころ、電気機械と、起重機の仕事は次第に下降線をたどっていた。人件費の安いドイツやアメリカの製品に、シェアを奪われてきたからである。ちょうど、起重機用電動機と鋳造の工場がトラフォード・パークの工場に移転したので、クック・ストリートの工場には空きスペースができていた。彼はここでまず3台の試作車を作り、量産型の原型にしようと考えた。

 さて次回は、FHロイスがクレアモントの反対を押し切って自動車造りを始め、ロールス卿に出会う経緯について、記述したいと思います。

令和2年2月13日
林英紀

3.ロイスの半生(起業期)

 フレデリック・ヘンリー・ロイスは、20才で起業した。前回の補足をすると、エレクトリックライティング&パワージェネレーションカンパニー時代は、1882~83年に施行された、ロンドンの街灯を電灯にする(それまではガス灯であったと思われる)という前例のない計画に携わり、その知識と技術を買われてヘッドハンティングされたランカシャー・マキシム・ウエスタン・カンパニーでは、リバプールの街灯化計画に於いては主任電気技師を務める。この会社は1年半で倒産、ロイスはそれまで貯めた20ポンドを元手に、「ロイス&カンパニー」を設立した。これは、大手電機メーカーにランプホルダーやフィラメントといったパーツを卸す会社であった。他文献では、「1884年、FHロイス&マンチェスター機械技師会社を設立、電動クレーンや発電機を製造する会社、を設立」となっているが、これは会社が発展してからの名称と、業績によるものであると思われる。

 この時FHロイスは、まだ弱冠20才であった。この時、エンジニア仲間で、裕福な医者の息子だった、アーネスト・アレクサンダー・クレアモントに50ポンド出資させて社長にしたが、技術面ではロイスが主導権を握っていた。

 1891年スパークが飛ばず耐久性も高い直流発電機と、直流電動機を開発、粉塵爆発に悩まされていた製粉工場や炭鉱などから多くの注文を受け、会社の経営は軌道に乗った。ここにセトライト氏がロイスを天才と賞する才能:①物事に対する好奇心➁不完全であることを認識する心➂どのような改良が可能か考える洞察力④実行に移す能力、が発揮されている。後にロイスの設計したエンジンが、きわめてオーソドックスな機構であった事より「彼には独創的な仕事が出来ない」等の諸説もあるが、それが誤りであることがここで証明される。また、上記に「耐久性も高い」と表現されているように、ロイスが100年160万キロ走る車を作ることになる要素が、ここに垣間見える。

 ロイスは1894に会社は新たな資本を募って増資、FHロイスは、ミニー・プントという女性と結婚、ナッツフォードに家を新築した。また、それまで人力に頼っていたクレーンを電動化し、その電動起重機がそのまま日本で真似されるくらい、その名は海外まで届いた。

 セトライトは「自社の起重機が日本でそのままマネされる名誉をうける大会社に成長した」と記している。この表現を見ると、明治維新(1867)から20数年後すでに日本の工業技術力は世界で認められていたことになり、日本の文明開化のスピードがいかに速かったかを想像させる。実際、屋井先蔵は1887年に世界で初めて液の漏れない乾電池の製作に成功、豊田佐吉による豊田式自動織機の発明も1895年である。

 のち、ロールス・ロイス社の社訓となる「正しくなされしこと ささやかなりしとも けだかし(ラテン語の日本語訳)」を自ら実行し、ロイスは、セトライトが「ロイスは一生夢中で働き世間と交流する時間はほとんどなかった」と記しているように、寝食以外は設計室と現場を往復するのみで、機械造りに専念した。この会社で、親友のクレアモントは、マネージメントの全てを行い、「FHロイス&マンチェスター機械技師会社」は上記の通り大会社となる。

 

 さて次回は、FHロイスが初めて自動車を購入し、自動車造りを始め、ロールス卿に出会う経緯について、記述したいと思います。

 

令和2年2月10日

林英紀記

 

2.ロイス氏の半生(幼少~青年期)

 フレデリック・ヘンリー・ロイスは、ハンティンドンシャーのアルウオルトンで、製粉業を営んでいたヘンリー・ジェームス・ロイスの5男として、1863年に生まれた。

 18世紀に始まった産業革命で、織物業が進化、製鉄業が格段に成長し、蒸気機関は動力源の刷新をもたらせた。19世紀になると、1921年にファラデーにより電気モーターが発明され、都市ガスの普及は、ガスをエネルギーとしたレシプロエンジンの開発につながった。

 彼が生まれた1860年代は、60年にベルギーのルノワールが、蒸気機関と似た構造のエンジンを開発、62年にフランスのロシャスが4ストロークエンジンの特許を取得、64年にドイツのオットーがエンジン製造に成功し、67年のパリ万博で金賞を受賞するなど、様々なガスエンジンが、産業用として普及し始めた時代である。

 4歳の時父ジェームス・ロイスの製粉工場は資金不足から機械化に遅れて倒産、一家はロンドンに引っ越した。当時の英国では、急速に発展したロンドンに、仕事を求めて国内中の生活困窮者が集まるとも言われていた。ここで、父ジェームス・ロイスは病気となり、F.H.ロイスは9才で新聞配達として働かざるを得なくなった。この結果11歳まで学校に通えず、通い始めてからも電報配達の仕事との両立が困難で、休みがちであったという。

 父が病死し、親戚の中で唯一裕福だった叔母の援助を受け、ピーターバーバラにある、グレート・ノーザン鉄道の機関車工場に15歳の時就職する。働きながら独学でフランス語や、機械の理論などを勉強するが限界を感じ、工業専門学校に聴講生として入学。当時最先端の電気に関して熱心に学んだ。

 18歳の時援助してくれた叔母が亡くなり、FHロイスはリーズに移って小さな工具メーカーに就職した。この年は、「自動車の父」と言われるカールベンツが、2ストロークガスエンジンに関する最初の特許を取った1879年の2年後である。因みに、ドイツではゴットリーブ・ダイムラーと、ウイルヘルム・マイバッハも同様の発明をしていたが互いに知らず、最初の特許を取ったのはベンツであった。ダイムラーはしかし、霧吹き型のキャブレターを備えた4ストロークのガソリンエンジンを開発し、1885に特許を取得する。

 自転車が趣味であったベンツは、3本のスポークホイールの後輪の間に4サイクルのガソリンエンジンを置き、最新式のコイル点火装置を備え、水タンクへの自然対流式冷却方式水冷の、長時間自走できる自動車を発明した。1886年1月29日、「ガスを燃料とする自動車(ドイツ語の直訳)」の特許が発給した。これは世界で初めてガソリンを動力とする車両に対する特許で、この日は「自動車の誕生した記念日」ともいわれる。奇しくもダイムラーもこの年ガソリン動力車両を発明していた。当時、電気、蒸気機関を利用した自動車も盛んに試作されていたが、ここでガソリンをエネルギーとする内燃機関の優位性が明瞭となる。

 さてFHロイスは、工具メーカーでは得るものがなく、再びロンドンに戻った。そこで電気に関する知識を認められ、エレクトリック・ライティング&パワージェネレーティングカンパニーに就職できた。ここでもさらに電気技術の習得に努めて才能が開花、ランカシャー・マキシム・ウエスタン・カンパニーにヘッドハンティングされる。しかしこの会社は1年半で倒産、ロイスはそれまで貯めた20ポンドを元手に、「ロイス&カンパニー」を設立した。これは、大手電機メーカーにランプホルダーやフィラメントといったパーツを卸す会社であった。FHロイスは、この時まだ20代であった。

 

 さて次回は、FHロイスが電気機械メーカーとして成功し、自動車に興味を持つまでの20年について、記述したいと思います。

令和2年2月7

林英紀記

1.天才とは

 フレデリック・ヘンリー・ロイスは、天才であったと、高斎正訳「ロールスロイス」の著者、レオナード・セトライト氏は記している。では、天才とはなんであるか?という疑問に対し、セトライトは「何パーセントかの霊感と、何パーセントかの努力からなるとする、平凡な定義には同感できない」とし、「天才の条件とは、物事に対する好奇心と、不完全であることをはっきりと認識する心である」としている。また、「ロイスの名前を世界的に有名にしたのは、まさに彼のこのような性格であり、どのような改良が可能かを考える洞察力とそれを実行に移す能力である」と続けている。

 何かの分野で、類まれな能力ー天才と呼ばれる人物は、我々の周りに時に存在する。しかし、その全てが歴史に残るような偉業を達成するとは限らない。日本では、勉強ができる、高学歴、等が人間の優秀さを示す指標とする傾向がある。しかしこれは、単なる「頭の知能指数:intelligence index」である。欧米では同時に「心の知能指数:emotional intelligence」が重要視され、企業が人を採用する時などに用いられる。この心の知能指数に関しては、様々な解釈があるが、最も解りやすく説明されているものを採用すると、次の5つの要素からなる。

 ①判断力 ②自制心 ③忍耐力 ④社会性 ⑤他人への思いやり

 この5つの要素を、各20点として自己採点すれば、自分の「心の知能指数」を知ることができる。

 さて、ロイス氏が栄光の道を歩くことが出来たのは、上に述べたように、彼の頭脳が天才であった事に加え、心の知能指数も非常に高かった事にも由来する。ロイス氏は、天才科学者であるうえに、純粋な天才技術者でもあった。しかし彼が時をして出会う、チャールズ・スチュアート・ロールスの財力とクロード・ジョンソンの商才に恵まれなかったら、その才能を発揮し、100年160万キロ走る車を作り上げることは出来なかったと考えられる。まさに絶妙なタイミングでこういう出会いに恵まれるというのは、ロイス氏の心の知能指数の高さに由来すると思われる。

 

   さて、次回はロイスの生い立ちと、車に興味を持つまでの半生を記載したいと思います。

令和2年2月6日

林英紀記