投稿者「林英紀」のアーカイブ

広島県呉市のサグラダファミリア、ナゥ

ベランダ再建、25ミリコンパネ天板貼り

そこから、抜群の眺望

林酒造、酒の仕込みは?

普酒仕込みの2日目、通称「踊り」:菌が活躍して踊る様なので、このいい方?

次は、「中」蒸米の量が増えるので、この送風機でタンクに飛ばします。

左の細長いタンクは、元が入っています。

母家では、着物博物館用撮影、4日目

宮崎友禅斎の着物と掛軸

ネットで、3,000円位で手に入れた振袖。

精緻な、本菱田絞り‼︎

手の込んだ金駒刺繍‼︎

 

4列の金駒刺繍でこの細さ↓

最初に買った人は、数百万支払ったと、思われます。

今では、絶対出来ません

生地も、美しい綸子です。

ネットオークションの写真では、地味に見えますから

実物は、博物館級です‼︎

皆様、3/23の着物博物館オープンを、お楽しみに!
他にも、サプライズがありますよ〜

今日のサグラダファミリア

大工は、2階コテージのベランダ再建

その2階、新しいサッシはめる準備

採光は床面積の1/7以上

ここに排煙窓付けます。床面積の1/50以上

酒屋では、

南酒蔵2階、明治の花嫁衣装博物館、ペンキ屋が塗っています。

床は、リンレイのオールを5回塗りましたけど、まだ皮膜が出来る程ではありません。
もう10回位塗りますかね,〜

巾木付けて締まりました

母家座敷では?

着物博物館、パンフレット用、着物1点1点撮影

5000万画素のカメラだそうです。カメラマン、助手(娘さん)、グラフィックデザイナー、クリーニング屋さん(しわ伸ばし)の4人がかり、1日で20点程しか撮影出来ません。

てな訳で、広島、呉のサグラダファミリアは、少しずつ進んでいます

笹子島コテージ、一昨年に続き、昨年度もアウォード貰いました

 

各部屋のテラスでのバーベキューも人気ですけど、瀬戸内海の景色を望みながらの、本館アーチの連なるテラスでの、お食事もいいですよ

砂浜に伸びる桟橋は、瀬戸内海でもここだけです。

クルーザーでお越しの方にも、人気です。

おまけに、この桟橋の沖には、魚礁があり、魚も良く釣れますし、釣れた魚を捌く外シンクもあります。

さまざまな工夫懲らして、お泊りの皆様に楽しんでいただけるように、日々少しずつ努力を重ねます。

 

鎌倉芳太郎

鎌倉芳太郎作紅型の着物生地、です。亡くなって40年経ち、極めて寡作なので、滅多に見られないものです

試着してるのは、広島の事務長、笑。

一つ一つ、独自の模様!

鎌倉芳太郎
1889年 香川県三木郡氷上村出身 
東京美術学校図画師範科卒業
東大教授、建築家の伊東忠太の指導受ける
沖縄の女学校の教鞭をとりながら、沖縄の美術工芸を研究
伊東忠太と沖縄の調査をはじめた1923、首里城が、3日後に、内務省により取り壊され、沖縄神社になるという新聞記事を見て驚愕し、2キロの道を走って、寺社建築、古社寺保存の権威であった伊東の元に駆けつけ、間一髪でこれを阻止した。
沖縄調査は、2度に渡り、鎌倉芳太郎は、写真4000枚、ノート81冊、紅型2000点、陶磁器67点を、本土に持ち帰り保存した。
鎌倉の写真無しには、戦争で全てが焼き尽くされた、首里城再建はならなかったとされる。
紅型は、琉球紅型3宗家の1つ知念家の、知念積昌より荷車いっぱいの型紙を譲り受け、実家の香川に持ち帰り保存し、貴重な資料となっている

これも着物博物館に展示しますので、皆様ご自由にご覧下さい

琉球紅型は、古来知念家などが中国の唐紙技法などから学んで、独自の発展を遂げたもので、琉球王国では士族以上
の階級の人しか身に着けられなかったそうです。
本土での、京紅型、越後紅型などは、それから出たものです。

1942、東京美術学校助教授となるが、1944退官し、染織家となる。
1973、人間国宝に認定される
1983、急性心不全で死去、84才
2005、彼の残した写真や資料が国の重要文化財に認定される

鎌倉芳太郎、初期の作品。伝統的な柄ゆき

これから、独自のデザインを発展させたのが、最初の写真。

その点では、琉球紅型から独自の柄を生み出し1956に、人間国宝に認定された、芹沢銈介氏に共通する所があります

1番伝統的な紅型で人間国宝に認定されたのは、紅型再興の最高の功労者、城間栄喜氏に師事した玉那覇有公氏、1996年と、少し遅い

さて、笹子島のサグラダファミリアは?

キッチン、バストイレユニット来ました。

ベランダ建前の準備。エンタシスの柱は、最初から差し込みます。

2階、耐震金具

さて、カリスマ整備士の室尾商会では?

錆錆だらけだった燃料タンクの修理

錆を浮かす薬入れ洗浄

次にこの液体入れると、下面がコーティングされ、錆が止まる。20万の新品部品取り寄せるより、安く付きます。

さすが、カリスマ整備士!

ベンツ450SEでした

そうそう

建具屋は?

明治の花嫁衣装博物館の巾木付け

これより、全然いいですね

ペンキ屋は、コンパネ剥き出し部のペンキ塗り、同じチャコールグレーに

てな訳で、全てのサグラダファミリアは、少しずつ進んでいます

広島呉のサグラダファミリア、ナゥ

大工は、2階ベランダ躯体の木材刻み

ユニットバストイレ据える床

林酒造南酒蔵2階、明治初期〜中期の花嫁衣装博物館、コンパネ剥き出しだったので、長尺シート貼りました。

床と漆喰壁の境目がパッとしないので、巾木貼ります:建具屋+ペンキ屋の仕事

古備前の甕

鋳物のストーブ、重くて降ろすの大変なので、片隅に展示します

さて、酒屋の方は?

純米大吟醸の「留」

三段仕込み
1日目:添え、米19kg、酛に加えます
2日目:踊り、菌が増えるの待ちます
3日目:中、米44kg
4日目:留、米88kg
1枚目写真奥が、低音醸造室

低温室使わんでも、充分低温です。

カリスマ整備士は?

ロールスロイス、ロバートジャンケルリムジン

プラグの火花飛んでなくて、デストリビューター交換です直りました。

ベンツ450SE、燃料タンク洗浄と、ガソリンポンプと、フィルター2個きつける。
ベンツ450SLCは、パワステ部品交換

てな、わけてサグラダファミリア少しずつ進んでいます

明治、大正の花嫁衣装博物館

南酒蔵2階、明治屋初期〜.末期

床貼る準備で、半分移動しました

天然染料のみの時代。今と違って、振袖は年配の女性でも着ていました。裾に模様が集中しているのは、そういう人用。今で言う、色留の様なもの

縮緬でも、薄く、シボがこま

裏地の生地も極めて薄い

細かい刺繍の手

夏振袖

絽に生地に、細かい刺繍

これは、全面に模様替えあるので、花嫁衣装と思われます

縮緬生地に、友禅染のこの細かい線が出せるのは、素晴らしい技術!

素晴らしい暈し染! 晩年の久保田一竹氏が得意とした、オーロラ染に、匹敵します。

さて、笹子島リゾート、昭和の車レンタル展示室は?

2階も、内外装材取りました。これから、コツコツ仕上げます。

何しろ、サクラダファミリアですから〜

あけましておめでとうございます🎍

今年もよろしくお願いいたします。5月の連休迄には、山側コテージ4室追加になりますので、混雑時に対応しやすくなります。

また、その山側2棟の1階を、昭和の車、展示&レンタル「ルネサンス昭和の車レンタル」と、なる予定です。
対象車は、
 マツダ:初代キャロル2ドア、キャロル4ドア、初代ファミリア、初代ファミリアクーペ、
ルーチェロータリークーぺ(レストア中)、初代ルーチェ(レストア中)
 トヨタ:初代カローラ、2代目コロナ、初代スプリンター、2代目クラウン
 日産:2代目ブルーバード、2代目セドリック、縦目グロリア、初代フェアレディアメリカ仕様(レストア中)
 ベンツ:1970.280s、1978.450SLC、1991.500SL
 その他:いすゞ117クーペ、日野コンテッサ 
 の、予定です。
ただ、建物も当社の理念に従い、大工、建具屋、ペンキ職人達が、手作りにこだわりコツコツ仕上げていますので、これこそサクラダファミリアです。笑笑

また、消防署など、また邪魔が入るかも知れません。笑笑

学生運動で、東大安田講堂が占拠され、東大入試が中止となり、阪大医学部を受験して合格した、昭和44年。阪大も学生が占拠し、学館入口に、机や椅子でバリケードを築き、授業をボイコットしていました。
 その時、学生達は
①官僚制度の廃止
②教育制度の改革
を、スローガンに掲げていました。
 私も、同級生達も、学生親派でした。香港若者達の雨傘運動を見ると、思い出します。
 結局、国は日本中の大学に、機動隊を導入して、学生達を暴力的に排除して、元通り!何も変わりませんでした。

 少なくとも、②位変わっていたら、先進国最低ランクに地位低下しつつある、今の日本はなかったかもしれません。

ほとんどが、昭和40年代前半のもので、一度車検受けてあちこちのカーイベント行った車です。団塊の世代の皆様、懐かしいですよ〜  
 パワーがないので、小まめにシフトダウンしないと、ノッキングしたり、オーバーヒートしますよ〜 まあ、それも楽しみですけど〜

私的には、ベンツ500SLが、1番乗り易いですね。

 ロールスロイス博物館と共に、今年もよろしくお願いいたします。

 

今年もありがとうございました

今年は、平和で穏やか過ぎて、強い者に逆らえない、日本人が露見した年でしたねー

1番に情けないのがマスコミ、視聴率優先で、ジャニーズ事務所の非情な犯罪を、黙認!
 特に、
NHK! おまえもか!
BBCに、すっぱ抜かれて、やっと手を付ける始末。
しかも、
「赤信号、皆んなで渡れば、怖くない」 みたいに〜

次が、国会議員の、パーティー券裏金! 収支報告書は、我々の確定申告と同じ。それに記載しないのは、完全に脱税と同じ! こんなの大人なら誰でも分かる。しかも〜
「上から言われた」と、他人のせいにする!

国民は、皆んなちゃんと、税金払ってますっ! 税務調査で追徴が来たら、泣く泣く払ってますっ!

「逆らったら、後が怖い」と、マスコミも弱気過ぎます。国民の幸せの為に、使命感を持ってもらいたいと、思います。

当社が、呉市消防署に、あれこれいじめられた時、周りから言われたのは
「逆らったら、後が怖いですよー」
しかし、役所も間違う事もあります。消防署の明らかな間違いは?
①「消防法に違反しているので、営業出来ません」と、言った事ー飲食店の営業許可権は、保健所にあり、消防署が直接営業停止する権利はないはず?
②「シャワー室全てに、火災報知器つけてください」と、言った事ー呉市建築指導課に聞いたら、消防署が間違ってた事が判明。
設計の先生談 「シャワー室に火災報知器!聞いたことがない!」
③第二展示室の入口を4本柱にした時「建物の形状が変わったので、査察にります」と連絡あり。ー幅2m以内の庇は、建物の面積に入らない。しかも、3方壁のないいわゆるピロティ構造。
日本国内他市町村では、どういう時に査察に入るか、その基準を公表しているところもあります。
「呉市消防署は、どういう基準を基に査察に入るのか?それは公表しているのか?」聞いたら、
「査察に行くのやめます」と、後から、連絡あり。

この、2〜3年を振り返って、小生が考えた、戯言でした。ご拝読の皆様、お付き合い頂きありがとうございました。

どうぞ、良いお年をお迎えください。

排煙設備

浴衣面積の1/50の排煙面積、平均天井高の80cm下迄が有効と、前回言いました。

当博物館の建物は、40年前のものをリフォームし、名前は博物館でも飲食と車庫が実際の用途です。

 しかし3年前、オープンしたてに、呉市消防署予防課がやって来て、あれこれ注文つけられ、結局6ヶ月休館しました。

結局

第一展示室の排煙窓、当然100万以上かかりました。

第二展示室は?

海辺なので、汐風入らないように、内外2重窓にしていた所、半分くらい外側の窓を外しました。内からぼんと、開けられるように

第三展示室は、新築、SD設計の佐々木先生設計なので、最初から市販のがついています。手作り重視の建物に、似合いません。
しかも床から140cm迄の高さで操作できるように、しなければいけません。

2階ミニカー切子部屋

天井近く迄伸びる縦長窓で、排煙面積確保

レストランは?

海側全面窓、明らかに排煙面積は充分!

しかし⁈

「平均天井高を出せ」と言われ、この複雑な天井の平均高を計算させられました。

しかも!

やっと計算して持って行くと、

「トイレの面積が、計算に入っていない!」

とか、何度も計算し直されました。

建築指導課では、トイレはトイレ、ダイニングはダイニングそれぞれの排煙基準なのに、

「消防は消防の基準がある!」

と言われました。いろんな法律に縛られたら、何も知らない市民は、何も出来ません!

さて、窓のない部屋は、どうする?

第二トイレ。入口の部分の天井高が、扉の上端から50cm以上必要と、佐々木先生からアドバイスいただき、一部高くしました。手前はパイプが走っていて高く出来ませんでした。

おまけに、そのドアは自動で閉まらなければいけないので、クローザーつけてました。

呉市と、お隣のH H市は、広島県内でも、消防と環境保全課(浄化槽)が、厳しいと言われています。消防設備も浄化槽も市民にとって特に、商売する人にとっては、大変な負担です。特に、若者が流出し、どんどん企業も店も減って街では、少しは考えたらどうか?
と、思います。

ちなみに、室尾林医院、入院患者19人、職員12人、外来30〜40人、何で130人槽の浄化槽がいるんでしょう?おまけに、年間維持費(主に点検など)が100万以上です。

呉市には、水戸黄門に来て頂かないと!

 

戦前の沖縄紅型

前回ご紹介したこの紅型が、戦前に作られたものである根拠は?

この縮緬生地のシボの細かさ、にあります。

そもそも、縮緬とは、絹生地を織る際、横に右に捻った糸と、左にも捻った糸交互に通すと、糸の縮む力で生地にシボと言われる、凸凹ができたものをいいます。16世紀末に南蛮貿易で堺に入り→西陣→丹後→長浜(浜縮緬)→岐阜、桐生、越後と、全国各地に広がり、畳んででも皺ができにくい事から、縮緬独自の発展を遂げて行きました。

以前紹介させて頂いた、城間家14代目、城間栄喜の紅型。首里城が描かれています。

貿易で栄えた沖縄を象徴する。船の図柄

この贅沢な、着物を作る紅型工房が14代も続いている事は、沖縄からいかに栄え、豊かであったかを、物語っています。 
 
 これは、絹の平生地、主布に紅型で染めるので、輪郭が綺麗にでます。

しかし、凸凹の縮緬生地で、綺麗な輪郭を出すのは、至難の業。又、戦後は縮緬生地の紅型は、ほとんど作られていない。

 全島焦土と化した沖縄に、このような良質な着物が残っている事は、考えられません。これは、京都の老舗呉服屋が戦前に仕入れたものが、蔵の中に眠っていた貴重品です。

 沖縄紅型3家系の内の何処かで、作られたものの一つと思われます。城間栄喜の父、城間栄松が、息子2人を丁稚に出しても売らなかった紅型2000枚も、全て焼け、城間栄喜の元に残ったのは、大阪に持って行った60枚だけ。この紅型の型は今ないかもしれません。

作者名は分かりませんが、いずれにせよ、素晴らしい芸術品です。