投稿者「林英紀」のアーカイブ

広島、呉のサグラダファミリア、ナゥ

南酒蔵、西側半分の中2階完成。荷物移動しました。

東側も一部2層化します。ビニールカーテンは、ラベル貼りの際の埃除け

北酒蔵1階、明治大正の花嫁衣装博物館。LED照明つきました。天井高3m 50あるので、2層にして、100枚展示予定

南酒蔵南側に展示予定の、映画「吟する者たち」セット

手桶

サタケが発明した、世界最初の機械式米つき機

酒絞り、いわゆる船のここに展示

これは、昭和かも? 素晴らしい桶染と、ぼかしの技術

さて、

国産名車シリーズ、7年半経ってもまだ、終わりません

2回並べ替えして、博物館、第3展示室、4つの棚に展示していますけど、

あれから来たのも、展示まち。これもサグラダファミリア

秘書のパルテノン神殿プラモデル

まだまだ、塗装中。柱をピンクに塗ってる‼︎ どんな風になるんでしょう??

私は、時にはシェフ手伝い

素材の味を生かし、調味料を出来るだけ使わないよう、味のチェックを時たまします。
何しろ、16の仕事を持つ男ですから

今日の、広島、呉のサグラダファミリア

南酒蔵1階、入って右が、映画「吟する者たち」セット博物館、奥2階と北酒蔵の、明治大正花嫁衣装博物館。左は中2階を作り、倉庫整理します。

奥から見た所

建具屋は?

笹子島「昭和の車博物館」のドア作り

いつものごとく、シナベニアに、鉛筆描きの図面

さて、秘書のパルテノン神殿プラモデルは?

人物、屋根などアクリル絵具で塗っている

やれやれ、何もかも、サグラダファミリア!

さて着物博物館展示シリーズ
③絞り振袖続き

菱田絞り+刺繍

前回は、本菱田

今回は、普通の菱田、木綿糸で4回半巻いて絞る↓

前回の本菱田は、絹糸で7回半巻いて絞る↓

本菱田は、手間もかかるし、生地もより薄く、良質なものが要求される。

今回の絞り振袖は、京都、島原の太夫さんが着る予定だったもの!

手絞りでも、神楽の衣装みたいに、刺繍が盛り上がっている

島原は、京都6花街のうちの一つ。祇園にある、上七軒、祇園甲部、先斗町、祇園東、宮川町は、芸妓舞妓さんが居る所。島原は、少し離れていて、太夫さんが居る所。今は、輪違屋しか残っていません。

太夫さんとは、天皇、公家のお相手をする専門の女性。最高だった技量の唄や舞だけでなく、美しいお茶のお点前、和歌を詠んだりにも、長けています。

天皇、公家のお相手をする時間は限られているので、空いた時間にお相手をして欲しいと、申し出る金持ち町人が、沢山いた。
そこで、輪違屋などでは、希望者を集めて座敷に並んで座らせ、その日にお相手する男性を、太夫さんに選ばせた。
 
 選ばれた、幸運な男性は、上座に座った太夫さんに、お酒を注がなければならない。

 つまり、お客の方が地位が低い。

太夫さんの着る着物、江戸時代は、最高のものであった。

 その名残がある、華やかな振袖です

私も20年前行きましたが、その時司太夫さんが、お相手してくださいました。

 一軒だけ残った輪違屋さん、貴重な日本文化の継承の為に、頑張ってください! 心から応援しています。

広島、呉のサグラダファミリア、トゥデイ

 

天井から吊るす為の根太終わり

この空間に、中2階作ります。そうしないと、映画「吟する者たち」で使ったセットが、同時に展示できません

初期の米つき、これで米を削って、雑味を抑える事に成功

サタケが発明した初期の機械式精米機

その臼、ブラック製?
よく出来ています

酒絞る、通称「舟」

柱太過ぎた? 
美術監督の意見

柱にサイン
主演、中村俊輔!

美術監督、稲垣氏、カンヌ映画祭でグランプリ獲得した人

映画の仕事がない時は、実家の千葉で居酒屋経営。三谷春置いてくれています。

油谷監督! 飾らない、自然な映画を撮られる方、という私の印象です。

さて、展示着物シリーズ⑩
続編、沖縄紅型、城間家14代目城間栄喜

戦前は極貧、兵隊に取られ、戦後は焼け野原の中で、テント生活、魚釣りで何とか生活しながら、紅型を復活させる。

外国との公益で豊かだった沖縄を象徴する、舟の柄

素晴らしいデザインと、色。

しかし、前にも申したように、これの数倍素晴らしい、城間栄喜の振袖を2点見た事があります。
いつかは、探し出したい〜

 

広島、呉のサグラダファミリア、ナゥ

北、南酒蔵間、外装完成! 下は倉橋産議院石(桜御影)貼りましたが、表面ノミ手打ちなの、また白っぽい。焼杉同様、年月経たないと、なじみません。

北酒蔵1階中では?

天井からの、着物吊り手を加工中

こんな感じ

さて、展示着物シリーズ、6月9日の続き②、総刺繍続き

やはり黒地、一部友禅入り

目の詰まった手刺繍

2連14列の金駒刺繍

一流の職人が、数年かかって仕上げた。バブル時代だからこそ、こんな着物に需要があった。

バブル時代は、着物業界でも、金に糸目をつけない、最高の物が作られた時代です。

広島、呉のサグラダファミリア、ナゥ

焼杉、うち終わりました。後、下にモルタル塗り、手打ちの議員石(桜御影)貼ると完成

着物博物館

本宅ある場所に仮展示しています。 
 博物館オープンは、来年になりそうです。何しろ、サグラダファミリアですから〜

着物総計は、ロールスロイス総計を、上回ります

 

 

広島、呉のサグラダファミリア、ナゥ

北、南酒蔵間、焼杉打ちました。

左ナゥ、右87年経過。右は木が痩せて、木目が浮き出ていて、味わい深い。

着物博物館展示着物。振袖シリーズ3

染めの北川、振袖!

独特の美しさで、いつも着物の雑誌等に掲載されていました。

美しい色と、柄!

友禅の輪郭も鮮明で、刺繍が無くても、高級感に溢れ、華やかです。

1955創業、逸品物の京友禅のみを作り「染の北川」として、着物業界では、確固たる存在で1999には売り上げ25億!

平成29年に廃業しました。白生地に印刷して「京友禅」として大量に振袖を作る会社には、太刀打ち出来ませんでした。

自社でネジ迄作り、エンジンは手組み、最高級の革やウッドを使って熟練職人が内装を仕上げ、1億かけて作った車を5000万で売った、ロールスロイスモーター社が、名前だけ残して消えたように〜

また、日本文化の火が一つ消えたような気がします。

 

哀愁の漂う、美しさ

今日の、広島、呉、サクラダファミリア

北酒蔵、新しく作った壁に棚をつけています。着物博物館にするため、機材のおく場所がいるためです。建具屋と大工の共同作業

南酒蔵は、

天井高、3m 30なので、一部中2階構造にして、段ボール箱等置く場所作ります。

ペンキ屋が、北南酒蔵間の部屋床を、レンガ色に塗りました。

灘で勉強して帰った三浦仙三郎は、清潔な環境で酒造りをする必要性に、気付壁を漆喰塗り、床をレンガ敷きにしたわけです。

従って、明治大正花嫁衣装博物館、第二展示室床は、レンガ敷となります。

腐造に悩んだ三浦仙三郎、こうして蔵を清潔な環境にしても、なお腐造を出してしまいます。映画でそのシーンをここで撮りました。

 さて、何故でしょう?

 この答えは、このブログの最後に〜

さて、着物博物館展示着物14

前回、越後上布だったので、

宮古上布

白地

白地に柄が織り込まれていると、いう事は、染める時、殆ど糸は括られていると、いう事。

下の柄が透けているくらい、薄い!

越後上布は、「ある植物の花茎」と、前回言いましたが、宮古上布は、正真正銘の、苧麻の繊維。1m位の茎の1番いい所を手でさき、繋ぐ。繋ぎ目がスムーズになるように繋ぐのが至難の業、これは、越後上布、芭蕉布も同じ。芭蕉布の、平敏子の糸取りを見た評論家が「神業!」と、思わず唸ったと、前々回書きました。昨年、平敏子氏は101才で亡くなりましたが、後にも先にも、これ以上の糸を取れる人はいないし、現れないと、言われています。

前回のと違う、平敏子氏の芭蕉布、前回のは2色ですけど、これは3色。指が透ける細さと、均一さ! 平敏子氏しか出来ません。

宮古上布、普通でも糸取りに半年。この細さと均一さとなると、最高の職人でも、2〜3年かかります。この模様出す為の括り染めに、最高の職人でも5〜6年かかります。
 従って、売値は2000万以上と、なります。

男物宮古上布。この紺地が普通。

この糸の細さと、生地に薄さ。100年まえのもの。晃永衣装のお祖父さんか着用してた。下に、麻の長襦袢つけて着ると、風が通り、裸で歩いているみたいです。
 おまけに蝋引きされてるので、汗も滲みません。

こんな43年前に亡くなった、S氏作。これ以上細い糸取れる人は、それ以後現れていません

江戸縮緬といい、紅花染長襦袢の薄い生地といい、昔の日本人の手仕事は凄い?

秘書が、パルテノン神殿プラモデルに、挑戦!

元々、週2回此処に来ていた、横地氏が「私がやりたい!」と、言ってたやつ

しかし、横地氏は呉市市会議員でトップ当選し、忙しくてできなくなりました。

そこで、若い秘書が始めたわけです。

今日、半日でここまで。なかなか器用ですね。さすが、デザインの専門学校でてるだけのことは、あります。

 しかし、これも、サクラダファミリアです。

さて、今日の長いブログに付き合って頂き、ありがとうございました。

 三浦仙三郎が、蔵を漆喰壁、レンガ敷き床にして、清潔な環境にしても、作った酒が、腐った訳………

それは、灘の地下水は、ミネラル分の多い、硬水。広島の水は、それが少ない軟水だからです。ミネラル分が少ないと、雑菌が繁殖しやすい。
 ある科学者の講演を聞いて、それを知った三浦仙三郎は、自分で工夫して「軟水醸造法」を見つけます。
 明治40年。日本で初めての全日本清酒品評会が、開かれる事になった時、全国の人は、当然「灘の酒が上位を占めるだろう」と、思っていました。

 しかし、蓋を開けてみると、竹原藤井酒造の「龍勢」が一位、
倉橋町我が林酒造の「三谷春」が二位、と、広島の酒が上位を占めました。

 当林酒造では、100年以上変わらぬやり方で酒造りし、今年は、三谷春大吟醸が、県で一位、国で金賞。その大吟醸と、倉橋産完熟梅、和三盆が使った梅酒がフランスで金賞となりました。

今日の、広島、呉のサクラダファミリア

明治・大正の花嫁衣装博物館、第二展示室、要らないもの整理。
217年使っている井戸は、新しい枠作りました。

外は?

壁の漆喰塗り。やはり酒屋は白壁でしょう。

先代が、崩れかけた壁を、板なんちゃってトタンで、カバーしていました。

そう、そう、大失敗!がありました。

140cm×190cm×40cmの着物展示ケース、巾1mの廊下、70cm×180cmの開口の部屋に、どうしても入りません!

そこで↓

一旦分解して入れる羽目に!
ペンキ屋は、2度手間です。

さて、展示着物シリーズ13

越後上布

宮古上布と並んで、夏物の最高峰!

風通しが良く、薄く、均一な生地。精緻な柄

越後上布で、ここまでの物は、軽く1000万を越えます。

その理由は、国文化庁指定重要文化財!
 誰彼でも作れるものではありません。厳しい条件が課せられ、全部文化庁がコントロールしています。

原料は、苧麻、という事になっています。

ウィキペディアでも

しかし、私が「なっています」と、表現したのは、表向きの話:パブリックには、です。

実際は、ある植物の花茎を使います。花が咲き実がなった後、30〜50cmの繊維を取り出し、繋ぎ、捻をかけながら糸を紡ぐ。
 この全て手作業の糸取り作業は、結城紬、宮古上布、芭蕉布等と並ぶ、辛抱仕事です。
 ある時、外国人にさせようとした所、続かなかったそうです。
 この、糸取り、糸括り、いざりはたおり、は日本人の辛抱強さと、根気のなせる技かもしれません。

 さて、着物業界の人間なら、誰でも知っている、越後上布の真の材料は?

 来館者様に、こっそりお教えいたします。

その植物、何本植えたか?全部、文化庁への報告義務があるそうです!

今日の、広島、呉、サクラダファミリア

北蔵1階、明治、大正、花嫁衣装博物館第二展示室。要らないもの整理しました。ここは、映画「吟する者たち」で、灘から帰った三浦仙三郎(主演中村俊介)が、床をレンガ敷きにし、壁を漆喰塗りにして、酒造りをするシーンを撮った所。

「吟する者たち」
いい映画なんですけどねー
思ったほど、ヒットしませんでした。

中を整理しました。ここは天井か高いので、2段に展示できそうです。南蔵2階が50点なら、ここは100点?

北南蔵間

トイレ付きました

外側は?

モルタル下地の後

漆喰の軒天完成、壁は中塗り

白い防水シートのところは、昔ながらに、杉板を黒く焦がして打ちます。

その下は、呉石材の桜御影、大阪城の石垣と、国会議事堂と、同じ御影石です。

大切なのは、職人の手仕事、コストは関係ありません。

さて、着物博物館、沖縄紅型⑩
 城間家14代目、城間栄喜氏、続き

焦土と化した沖縄から、立ち上がり、紅型を復興させた、城間栄喜氏。昭和24年、現在保存される事になった被服省の向かいの民家で生まれた、筆者にとって殊更親近感が湧きます。

 沖縄紅型を復興させ、次第に人々の注目を浴びるようになり、城間栄喜氏の元には、画家の末吉安久、大城貞成、屋宜元六、森田永吉が、紅型を習いに来た。
 米軍支配の元、資材も不足、高価な着物を買える人もいない中、ネクタイ、スカート、手提げ袋、パラソル、テーブルクロス等、日用品をつくり、米軍軍族や、本土からの観光客にも販路を拡大する。
 栄喜氏は、復興させた沖縄紅型の技術を広く公開し、1963沖縄タイムス文化賞を受賞。

 しかし、沖縄紅型を習い、独自の型染世界を展開した、芹沢銈介氏。栄喜娘婿の玉那覇有公氏が、人間国宝に指定されたのに対し、いわば無冠であり、筆者の納得行かない部分を感じる。

筆者は、この本に載っているのより、ずっと美しい栄喜氏の紅型振袖を、2点見た事があります。いつか?探し出して?展示したいと、思います。

酒屋では、

杜氏が、瓶詰。事務のお姉さんがラベル貼り。ここも、昔ながらの手作業!

広島、呉のサクラダファミリア、今日

昭和の車博物館、トヨタ館、天井根太、着々と

着物博物館、沖縄紅型⑩に、戻ります

1908生まれ。沖縄紅型、三宗家の一つ、城間家14代目。宗家とはいいながら、父の栄松が極貧で、13才で父の借金の肩代わりに年季奉公に出される。20才で年季明け、紅型の仕事にかかる。
 栄松は、極貧の中、伝統の紅型2000枚は、売らずに残していた。しかし、栄喜が、制作に入り9ヶ月で栄松は亡くなる。
 34才、大阪に染料を買いに行った所、そのまま航空機工場に徴用。
 36才、招集を受けて、福岡の航空隊配属となる。
 37才、妻ウシ戦死、石畳道を挟んで石垣に囲まれた赤瓦葺きの家が立ち並び、柳宗悦をして「日本一美しい城下町」と言われた、首里の街も焦土と化す。
 昭和22年39才、学童疎開で熊本にいた、長男栄順と次男真勝を探しあて、瓦礫が山と積まれ、テントが立ち並ぶ、首里に帰る。栄松が残した、紅型2000枚は当然なく、大阪に持ち寄った紅型50枚が、全てであった。米軍に使われるのが嫌で、首里山川に建てたテントで、得意の釣りで釣った魚を売って暮らした。
 ある時、紅型の古裂で縫われた、継ぎはぎのスカートを着た女の子に出逢い、跳び上がらんばかりに喜ぶ。その子家まで着いて行き鼻緒などになっている古裂を分けてもらい、道具さえあれば、紅型作りは再開できると、米軍使い古しの刃物など使い、道具作りから始める。
 昭和27年頃より、次第に有名となり、画家などが紅型の勉強に訪れるようになった