投稿者「林英紀」のアーカイブ

今日の、広島、呉、サクラダファミリア

北蔵1階、明治、大正、花嫁衣装博物館第二展示室。要らないもの整理しました。ここは、映画「吟する者たち」で、灘から帰った三浦仙三郎(主演中村俊介)が、床をレンガ敷きにし、壁を漆喰塗りにして、酒造りをするシーンを撮った所。

「吟する者たち」
いい映画なんですけどねー
思ったほど、ヒットしませんでした。

中を整理しました。ここは天井か高いので、2段に展示できそうです。南蔵2階が50点なら、ここは100点?

北南蔵間

トイレ付きました

外側は?

モルタル下地の後

漆喰の軒天完成、壁は中塗り

白い防水シートのところは、昔ながらに、杉板を黒く焦がして打ちます。

その下は、呉石材の桜御影、大阪城の石垣と、国会議事堂と、同じ御影石です。

大切なのは、職人の手仕事、コストは関係ありません。

さて、着物博物館、沖縄紅型⑩
 城間家14代目、城間栄喜氏、続き

焦土と化した沖縄から、立ち上がり、紅型を復興させた、城間栄喜氏。昭和24年、現在保存される事になった被服省の向かいの民家で生まれた、筆者にとって殊更親近感が湧きます。

 沖縄紅型を復興させ、次第に人々の注目を浴びるようになり、城間栄喜氏の元には、画家の末吉安久、大城貞成、屋宜元六、森田永吉が、紅型を習いに来た。
 米軍支配の元、資材も不足、高価な着物を買える人もいない中、ネクタイ、スカート、手提げ袋、パラソル、テーブルクロス等、日用品をつくり、米軍軍族や、本土からの観光客にも販路を拡大する。
 栄喜氏は、復興させた沖縄紅型の技術を広く公開し、1963沖縄タイムス文化賞を受賞。

 しかし、沖縄紅型を習い、独自の型染世界を展開した、芹沢銈介氏。栄喜娘婿の玉那覇有公氏が、人間国宝に指定されたのに対し、いわば無冠であり、筆者の納得行かない部分を感じる。

筆者は、この本に載っているのより、ずっと美しい栄喜氏の紅型振袖を、2点見た事があります。いつか?探し出して?展示したいと、思います。

酒屋では、

杜氏が、瓶詰。事務のお姉さんがラベル貼り。ここも、昔ながらの手作業!

広島、呉のサクラダファミリア、今日

昭和の車博物館、トヨタ館、天井根太、着々と

着物博物館、沖縄紅型⑩に、戻ります

1908生まれ。沖縄紅型、三宗家の一つ、城間家14代目。宗家とはいいながら、父の栄松が極貧で、13才で父の借金の肩代わりに年季奉公に出される。20才で年季明け、紅型の仕事にかかる。
 栄松は、極貧の中、伝統の紅型2000枚は、売らずに残していた。しかし、栄喜が、制作に入り9ヶ月で栄松は亡くなる。
 34才、大阪に染料を買いに行った所、そのまま航空機工場に徴用。
 36才、招集を受けて、福岡の航空隊配属となる。
 37才、妻ウシ戦死、石畳道を挟んで石垣に囲まれた赤瓦葺きの家が立ち並び、柳宗悦をして「日本一美しい城下町」と言われた、首里の街も焦土と化す。
 昭和22年39才、学童疎開で熊本にいた、長男栄順と次男真勝を探しあて、瓦礫が山と積まれ、テントが立ち並ぶ、首里に帰る。栄松が残した、紅型2000枚は当然なく、大阪に持ち寄った紅型50枚が、全てであった。米軍に使われるのが嫌で、首里山川に建てたテントで、得意の釣りで釣った魚を売って暮らした。
 ある時、紅型の古裂で縫われた、継ぎはぎのスカートを着た女の子に出逢い、跳び上がらんばかりに喜ぶ。その子家まで着いて行き鼻緒などになっている古裂を分けてもらい、道具さえあれば、紅型作りは再開できると、米軍使い古しの刃物など使い、道具作りから始める。
 昭和27年頃より、次第に有名となり、画家などが紅型の勉強に訪れるようになった

今日の、広島、呉のサクラダファミリア

大工は右の、昭和の車博物館の天井根太。ここは、トヨタ館予定。ちなみに、左側は、マツダ館。いずれも、昭和40年代前半の車達です

林酒造、北南酒蔵間。

左官が漆喰塗り。

北蔵、酒造部と博物館の仕切壁。所謂、漆喰大壁です。左官さん、いい仕事しています。

建具屋の作った吊り戸、90年前のと、同じ様式

さて、着物博物館展示シリーズ12

人間国宝、平敏子、芭蕉布

1921 沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉出身
1944 沖縄県勤労女子挺身隊に参加、岡山県倉敷市の航空機工場勤め
1945 沖縄文化に造詣深い、倉紡社長、大原総一郎(大原美術館創始者)が、沖縄の織物文化を残す事を思い「織物勉強会」発足させ、それに参加。種々の織物の指導は、外村吉之助から受ける。
1946 大原総一郎から、「沖縄の織物文化を守り育てて欲しい」と言われ、沖縄に帰る
1947 喜如嘉では、マラリアを媒介する蚊の発生源と、芭蕉畑がアメリカ軍に切り倒されていたが、山に自生している芭蕉から繊維をとって、細々と芭蕉布が織られていた。
 従来の布だけでは、生活に困窮するので、アメリカ軍関係者用に、テーブルセンターや、ランチオンマットなどに用途を広げ、デザインも工夫した。
 軍関係者の間で、上質の織物として、徐々に有名となる。
1950〜60金銭的に、最も苦労「喜如嘉芭蕉布工業組合」設立
1973 女性で2人目の「現代の名工」に、選ばれる
2000 重要無形文化財「芭蕉布」保持者:人間国宝に、認定

1965 沖縄タイムス文化賞を受賞した時、大宜味村の有志が、記念品の贈呈に何が欲しいか?平敏子氏に聞いたところ
「心を映す鏡が欲しい」
と答え、その鏡は自宅の玄関に飾られ、敏子氏は、毎朝この鏡に向かい 
「今日も嘘偽りのない仕事をさせてください」と誓うそうです。
2022年9月、自宅で亡くなっているのを発見される。101才

芭蕉の繊維を手作業で1本1本ほぐしてつなぎ、手で捻を入れながら糸にする。そして、この細さ‼︎

これを見た、ある評論家が、「神業‼︎」と、感激。

先に紹介した、6色200亀甲の、この結城紬の糸に、負けない、神業です

紅型に、芭蕉布、素晴らしい、沖縄文化です。しかも、全土焼け野原から、復興したものです。

沖縄人の心意気を味わいましょう

芹沢銈介追加

今日の、美の壺でも、紹介されていました。

芹沢銈介は、全ての日用品に型染の美を応用しました。

 しかし、300年続き、あれだけの戦禍を浴びながら、伝統を守った城間家、その流れを汲む玉那覇有公氏、より芹沢銈介氏が先に人間国宝になったのは、着物ファンで、創業217年の酒屋を守る筆者としては、少し疑問に感じるところがあります。 
 人間国宝の指定は、政治家の力も関係するという説もあります。
 同じ民芸でも河井寛次郎氏は、人間国宝の指定を固辞しています。それも5回!
 「やきものは、私1人で出来るものではない。手伝ってくれる人も一緒に指定して貰えるなら、受けます」と、
  
 こんな人柄を反映してか、河井寛次郎の作品は、人間国宝のハクが無くても、未だに人気があり、高値で取引されています。

広島、呉のサクラダファミリア、ナゥ

大工は、昭和の車博物館の天井、垂れ壁の下地。左が終わり、右の展示室

着物博物館、展示シリーズ11

芹沢銈介

1番有名なのは?

この、いろは文字

着物にもなっています

これは当館にはありませんけど

字体は、同じです。

いろは、それぞれの文字には絵がついています

この屏風も、貴重ですが、広島市には、4階建ての建物、そっくり芹沢銈介の作品で埋め尽くされているレストランがあります。

それは— ヒロコシ本店

この、春夏秋冬は、いろは・・・と、同じ位有名

1階入口には

壁にかかっています

2階は、もっと凄い!

各部屋の、暖簾が全部、芹沢銈介、多分一枚一枚特注!

 

まるで、芹沢銈介レストラン!
しかも、河井寛次郎の花瓶なんかも、そこら辺の棚に、ぽんと置いてあります。

民芸の館でもあります。

芸術品に囲まれての食事。おまけに、味もサービスも抜群です。

バブル時代が、そのまままだ存在しています。

広島にいらしたら、是非!
「ヒロコシ本店」と!

なかなか予約が取れないですけど〜

 

広島、呉のサクラダファミリア、ナゥ

大工は、昭和の車博物館、天井の垂れ壁。扇風機の風にあたりながら

ペンキ屋は、着物展示ケースの外枠、2回目塗り終わり。これから細かいペーパーかけ、3回目に入ります。ロールスロイス、センチュリー並の鏡面仕上げまで、4〜5回塗り? 日本で唯一、ロールスロイス社に認定された、綿引自動車の心意気が必要です。

さて、その着物博物館、展示着物11

芹沢銈介

1895静岡の呉服屋に生まれる
1916現東京工大、工業図案科卒業
1927、柳宗悦の民藝運動に感銘
1928、沖縄の紅型に出会う
1939、沖縄に行き、紅型の技法を学ぶ
1949、多摩美大教授
1956、「型絵染」重要無形文化財(人間国宝)に認定
1976、フランス政府から招聘され、パリて展覧会開催
1976、文化勲章

沖縄の紅型に基礎を置く、独自の世界

着物だけでなく、いろんな日用品のデザインにも携わっています。

テーブルクロス

風呂敷

座布団

お皿

和紙への、美しい型染!
何に、使いましょう?
このまま、額装しても良さそうです。100年前の螺鈿の机の上にに置いても、見劣りしません!

先程の、夏座布団のこのデザインは、結構有名です。
しかし、もっと有名なのがあります。

 それは、次回!
 請うご期待‼︎

芹沢銈介氏、着物作家としても、工業デザイナーとしても、天才です。

広島、呉市のサクラダファミリア、ナゥ

大工は、昭和の博物館の天井。

北酒蔵の仕切り壁、扉出来ました。遅いけど、いい仕事する、建具屋

ペンキ屋は、着物博物館の展示ケースのペンキ塗り、今2回め、これが乾いたら、ペーパーかけて、仕上げ塗り。漆塗りの風合いを出します

ところで、展示着物シリーズ⑩

沖縄紅型、前回続き、城間栄順

300年続く紅型城間家15代目

紅型振袖

伝統の美しい模様と、色使い

カメラの影入ってすみません

カメラの影入ってすみません

前々回紹介した吉岡幸雄氏は、紅花が手に入らないので、東北地方の農家に頼んで、作らせているそうです。ただの赤い布ではありません。

人間国宝、玉那覇有公氏の義兄弟、城間家の跡取り。おそらくこの方も、将来は人間国宝

今日のFhロイスブログ

大工、足場を組んで、昭和の車博物館野天井、石膏ボードの下地。

着物博物館展示⑩

紅型初の人間国宝、玉那覇友公

紅型は、沖縄の伝統的着物。沖縄県指定無形文化財です。

正確で美しく、独特の柄行きの繰り返し。

玉那覇有公(1936〜)氏、1996重要無形文化財(人間国宝)に指定。
1998紫綬褒章受賞
2000九州・沖縄サミットでは、各国首脳の前で紅型製作実演

1961より、沖縄紅型第一人者の城間栄喜氏に師事。長女道子さんと結婚。

300年続いた沖縄紅型、14代城間栄喜の父城間栄松は、戦前に極貧の中、伝統の紅型を守り抜く。栄喜氏は、米軍の爆撃と艦砲射撃で、焼け野原の中、紅型の復興に尽くした人。

栄喜氏娘婿の玉那覇友公氏は、その芸術性を日本全土だけでなく世界に承認されるようにします。

栄喜氏の長男、城間栄順氏の着物は、次回紹介します

広島、呉のサクラダファミリア、ナゥ

笹子島、昭和の車博物館に戻りました。天井の下地作り。気温35度の中、熱中症に気をつけてください。

エアコンの中で仕事出来る人間は、幸せです。

着物博物館展示シリーズ⑨

加賀友禅、唯一の人間国宝!

木村雨山

雨山(1891〜1977)振袖。しかも、未仕立て! 湯通しもしていない!

何処の友禅染にも見られない、唯一無二の、自由で美しい柄行きと色使い!

1934 帝展特選
1937 パリ万国博銀賞
1955 無形文化財
1966 紫綬褒章
1976 勲三等瑞宝章

帯もあります

いずれも、新品です

これを見ると、柄が細かく、緻密という、加賀友禅さんイメージが変わります。

加賀友禅はもちろん、京友禅の中でも、この柄と色は、独特です。

 

大工は、笹子島昭和の車博物館、改装に戻りました。
 手前がマツダ館、展示車両:キャロル、ファミリア、ファミリアクーペ、ルーチェロータリーの予定。
 向こう側が、トヨタ館:カローラ、スプリンタークーペ、コロナ、クラウンの予定。

 全てほぼオリジナル。昭和40年代前半のものです。

 しかし、今のペースではいつになるやら? なにしろ、自分達で「サクラダファミリア」と、言ってるんですから。

さて、帝王紫⑨

自然染料のみを使い、古来からの色を再現して来た。染司4代目吉岡常雄氏、5代目幸雄氏。多くの書籍が出ています。1988に常雄氏、2019に幸雄氏が亡くなり、今は6代目更紗氏の時代になりました。

 世の中に、「帝王紫」と名打った帯や着物が、ほんの数万円で売っています。しかし、これらのほとんどは、「帝王紫色」の紫で、貝のパープル腺からの抽出液だけで染めたものではなく、新技術:化学合成されたものがほとんどであると、思われます。
 吉岡幸雄氏から、液の供給を受け、友禅染を作っていた晃永衣装、「一着作るのに、5〜6年かかる。めちゃくちゃ高価になるし、そんなもん買う人、滅多にいまへん」と、言っています。

 当博物館に展示予定の、吉岡常雄氏初期の帯。吉岡帝王紫-晃永衣装、の落款入りの着物2点、これは貝紫だけで染めた本物です