投稿者「林英紀」のアーカイブ

7.ロールスとロイスの出会い

 ロイスが初めて造った2気筒10馬力の車、3台目のテストを委託されたヘンリー・エドムンズは、パーソンズ・ノンスキッド・タイヤカンパニーの代表として、この車をオートモービル・クラブ・オブ・グレートブリテン・アンド・アイルランド(RAC:ロイヤル・オートモービル・クラブ、の前身)が主催のテストに持ち込んだ。このテストの目的は、ようやく工業製品として認められ始めた自動車が、その性能を向上させるためにはどんなタイヤや、その他の付属品が有効かを確かめることであった。

 パーソンズのノンスキッドタイヤを付けてテストされたロイス車は、素晴らしい成績を修めた。そのテストドライバーの一人に、チャールズ・スチュワート・ロールスという若者がいた。

 レースに命を懸け、もともとスピードの出る車が好きであるロールスにとって、この非力な2気筒10馬力のロイス車は、興味の対象外であったはずである。しかしロールスは、人目を惹く先進性とか、驚異のハイメカニズムなどは何もなく、極めてオーソドックスな造りのこの小さな車に、大きな感銘を受けた。それは、ロールスの経験の中にある2気筒車のイメージを覆す、スムーズで確実な操作性と静かなエンジン音、快適な乗り心地であった。

 もともと機械工学に精通しているロールスは、ロイス車に乗り、細部まで行き渡った「エンジニアの良心」を見逃さなかった。

 

 ⑥で記載した本田宗一郎の話にまた言及するが、ホンダがまだバイク屋の店先に車を並べて売っていたころ、S600という2人乗りのオープンスポーツカーが発売された。当時日本では一流とされたスポーツカーである、プリンス・スカイラインGTBが2000ccで125馬力、トヨペット・コロナハードトップが1600ccで90馬力であったこの時代、ホンダS600は、600ccで57馬力であった。

 バイクで世界一になったホンダが4輪に進出する事を決定した時、本田宗一郎は「同じ4輪作るなら、世界一の車を作る」と決心し、車を作り始める前の1962年に鈴鹿サーキットを開設した。日本で初めて世界に通用するサーキットを作り、1964年にこの600cc57馬力の車を発売した事実は、ホンダが後にF1で無敵となる宗一郎の強い思いと、それ実現化させる為の周到な計画性を物語る。

 

 ロイスの車造りの特徴は、既存のメカニズムを見直し、不備な点に徹底的な磨きをかけ、信頼性を向上させるということであった。従って、極めてオーソドックスな造りでありながら、一つ一つの部品が細部に至るまで正確に加工されており、それに沿うよう職人たちも を鍛え上げられていた。 

 このオーソドックスという言葉に関し、筆者に連想させる言葉がある。

 それは、大阪大学の前身、適塾の始祖、緒方洪庵先生の言葉である。この人の門下生に、慶応大学を創設した福沢諭吉がいる。洪庵先生が、ドイツ医師フ―フェンフェルドの本を訳して「扶氏医戒乃略」という医師の心得を記載した額が、卒業生に配られる。その12箇条の一つに、こういう言葉がある。

一 学術を研精するの外 言行に意を用いて 病者に信任せられんことを 求むべし 然れども 時様の服飾を用い 譫誕の奇説を唱えて 聞達を求むるは 大いに恥じるところなり

 オーソドックスな治療が一番であるという意味である。

 

 ロイスの車の素晴らしさを知ったエドムンズは手紙を書き、ロールスに会いに行くように促したが、ロイスは相変わらず忙しく働いてばかりで、興味を持たなかった。そこで、1904年5月4日、エドムンズはロールスと連れ立ってマンチェスターを訪れ、ミッドランドホテルで、昼食を兼ねて初のロイスとの会談が実現した。

 ロールスはロイスの技術理論、豊かな経験、そして車造りに対する真摯な姿勢と人柄に、ロイスはロールスの理想を求める気高さと、その健全なビジネス哲学に、お互い感銘し理解し合ったのである。そこでロールスは、自分の「世界一の車をつくる」という夢を実現するためには、この14才年上、真面目一筋で技術的天才であるエンジニアの助けを借りることが、最善の道であることを判断した。そこで、ロイスが造った車は、ロールスの会社が一手に販売を引き受けることが決まった。

 ロールスと、ロイスの正式の契約は1904年の12月、会社の正式の設立は1906年3月である。

 

 さて次回は、ロールスロイスの車造りの発展について、記述したいと思います。

 

 令和2年2月27日

  林 英紀

博物館 休業のお知らせ

新型コロナウイルスの国内外での感染拡大を受けて、感染拡大防止のため、2月29日から博物館営業を当面休止させていただきます。

ご迷惑、ご不便をお掛けいたしますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

再開につきましては、決まり次第ホームページにてご案内させていただきます。

 

6.チャールズ・スチュワート・ロールスの半生

 チャールズ・スチュワート・ロールスは1877年8月27日、ロンドン東部、メイフェア―地区、バークリー・スクエアにある豪華な屋敷で、ロード・ランガトック男爵夫妻の三男として生まれた。当時のイギリスは、上流階級と労働者階級が明白に分かれており、同国の資産のほとんどは王室、貴族が所有していた。このあたりが、何度も革命が起きて民主化したフランスと違うところである。

  バークシャーのモーティマー・予備学校に通ったのち、イートン・カレッジに入る。そこで彼はエンジンへの興味を持ち始め、いつも油まみれになっているので、「ダーティー・ロールズ」とあだ名をつけられた。

 油まみれと言えば、ホンダを一代で築いた本田宗一郎を連想させる。1970年アメリカにおいて、世界一厳しい排ガス規制であるマスキー法が制定され、1972年、CVCCエンジンを開発し、世界で初めてこれをクリアーしたのがホンダである。メルセデス等は、排気管にエアーポンプを付けることで、排気のCO2濃度を下げているが、これでは濃度は下がっても、CO2の総排出量は変わらない。物理学的に燃やすガソリン量が少なかったら、排気ガス中のCO2量は減るわけで、現在のマツダのリーンバーンエンジンがそうである。しかしガソリン濃度が低いと点火しにくい。濃いガソリン濃度の副燃焼室を作って点火させ、その火が主燃焼室の薄いガソリンを燃やすという原理にしたのが、CVCCエンジンである。

 そのころ本田宗一郎氏の講演が直接聞けるということで、日本各地の経営者を集めて、有馬温泉でセミナーが企画されたことがあった。高額のセミナ―料を支払った社長連中が、温泉に入り浴衣姿、大広間で本田宗一郎を待っていたら、彼は油まみれのつなぎ服で現れ、「皆さんは何をしているのか! 温泉に入って浴衣を着て、そして経営を学ぼうとは! あまりにも悠長です! 私は経営を学ぶためにこんなことをした経験はありません。そんなお金を使っている暇があるなら、早く会社に帰って自分の仕事を一生懸命しなさい! そのほうが経営の勉強になります」と、一喝したそうです。

 労働者階級で、一介の電気職人からスタートしたFHロイスも、バイク屋のオヤジから成功者となった本田宗一郎も、徹底した現場主義の人間であった。この点に於いて、ロールスは出資者で、スポーツマン或いはレーサーのイメージがあるが、カレッジ時代の「ダーティー・ロールス」というあだ名から考えられるのは、機械にも専門的な知識を持ち、のちにロイスの作った車の優秀性を認める地盤ができていたという事である。実際、17歳でケンブリッジの私塾に通学、トリニティ・カレッジ入学後は、機械学と応用化学を学び、最終的には21才で、ケンブリッジ大学を卒業する。

 1986、18歳の時パリに旅行、初めての車であるプジョー32/2hp フェートンを購入し、フランス自動車クラブに入会、スポーツモータリストの仲間入りをする。

 一般的にイギリスでは、上流社会の人間は背が高いと言われているが、ロールスは身長195cmの長身でしかも、スポーツ万能であった。

 そのころ、前々回記載したようにイギリスには「赤旗法」があり、車のスピードが極端に制限され、これが英国車の発展を妨げていた。若き日のロールスとその仲間たちは、当時は一般的ではないものの、ガソリン車のスピードが持つメリットは、将来必ず社会貢献すると見抜き、その悪法の廃止に向けて精力的に活動したといわれている。初期のそれは、ロンドン市内をわざとスピードを出して走り回るという稚拙な方法であった。彼らは警官に咎められたら裁判も辞さない覚悟であったが、当局はその社会的地位を知っているので、見て見ぬふりを決め込んでいたという。そして、赤旗法は1896年に完全に撤廃される。

 1899年ロールスは初めて国際的なモータースポーツにエントリーした。しかし、このパリ→ボローニャ間のレースで、彼は最下位であった。この屈辱的経験は、彼に様々なことを考えさせるきっかけとなった。第一に、英国内では名前の知られた貴族でスポーツマンであっても、その実力は大陸では通用しない事。第二に、自身の愛車が英国車でなく、フランス車であった事。

 続く1900年、ロールスは仲間と共にオートモービルクラブ・オブ・グレートブリテン・アンド・アイルランドを結成した。そして、そのクラブ主催の1000マイルトライアルに出場し優勝したが、その愛車もフランス製のパナール12hpであった。

 1903年、ロールスは、クラブ代表であり、無二の親友であるクロード・ジョンソンと共に、自らの会社:C.S.Rolls&Co.を設立し、優秀な車の輸入販売を開始した。機械工学を学び、実際に車を走らせてその性能を評価するロールスの目は確かであり、パナールとモールというフランス車に加え、ミネルバというベルギーの車も取り扱った。

 しかし、ロールスは「いつか自分の名前の付いた会社を作り、世界に通用する車を作りたい」という夢を抱いていた。

 

 さて次回は、チャールズ・スチュワート・ロールスと、フレデリック・ヘンリー・ロイスの出会い関して、記述したいと思います。

令和2年2月22日

林 英紀

5.ロールス1号車

 フレデリック・ヘンリー・ロイスが最初に購入するのにドコーヴィルを選んだのには、理由がある。この1902型、フランス車は直列2気筒、12馬力のエンジンを積んだ、当時としては最先端の車であった。この会社の1898に発売された最初の5馬力車は、ロンドン郊外のクリスタル・パレス・サーキットを舞台とした1000マイルトライアルへ挑戦、1902にはロンドンーエジンバラ間ノンストップランに成功、と耐久性の高さでは定評のある小型車であった。

 期待して購入したドコーヴィルだったが、ロイスはその性能に落胆した。特に未熟なエンジンと、トランスミッションがもたらす激しい振動は許しがたいものであった。ここでロイスは、得意分野である電気自動車の可能性を考えた。振動が少なく、乗り心地が良いことは確かで、実際に当時は様々な電気自動車が試作されていた。しかし、電気のインフラが整備されている街中での短い距離の移動には適していても、バッテリーの進化なしには長距離移動は出来ないものであった。多くの技術者が電気自動車に過大に期待をかけ、無駄な時間を費やしていく中、ロイスは早々と電気自動車に見切りをつけ、ガソリンエンジン車の将来性にかけることにした。ここに彼の天才である所以の分析力と、心の知能指数の高さからくる判断力の確かさが発揮される。

 共同経営者で社長のクレアモントは全く乗り気でなかったが、ロイスは、時間をかけて周囲の連中を説得し、長い間考えを練り、車造りにこぎつけた。

 ロイスは、ドコーヴィルの欠陥を徹底的に調べ、分析してその構造をもとに、エンジンそのものだけでなく、電気系統、気化器、変速機等に大幅に手を加えた。変速機は、フリーホイール機構(クラッチを切っても、変速ギアが自由に回転する機構)を採用し、操作を楽にした。エンジンは1800CC、2気筒、10馬力であるが、吸気側がOHV、排気側がSVの所謂Fヘッドであった。この時代、吸気側はピストンが下がるときに発生する、シリンダー内部の自然吸引力で作動する弁が多かったが、機械で確実に作動するメカニズムを採用するあたりは、信頼性を最重視するロイスの考え方そのものである。ラジエターは、冷却効率が良く空気抵抗の少ないハニカム構造とし、当時最も優れていたフランス、ㇾブ社製の霧吹きキャブレターを採用した。これは、当時、世界最高と言われたメルセデス35hpに匹敵する最新の装備である。しかも駆動系は、パナール社が先鞭をつけたFRで、トランスミッションは前進3速、後進1速であり、後輪にはデファレンシャルギア内蔵のフローティング・ライブアクスルと、小型車の割には耐久性を重視した造りであった。

 1904年4月1日、ロイスが40才の誕生日を迎えて間もなく、1号車が完成した。

 

 ロイスは自ら試作車に乗り、クックストリートの工場と自宅の間を往復する走行テストを始めた。この車は当時のどの自働車より扱いやすく、静かで、洗練されており、大成功であった。ロイスはこれで安心することなく、2号車をクレアモントに、3号車を大株主のヘンリー・エドムンズに託して走行試験を続けることにした。

 

 このエドムンズこそ、ロイスをチャールズ・スチュワート・ロールスに引き合わせるきっかけとなる人物である。

 

 さて次回は、チャールズ・スチュワート・ロールスの半生に関して、記述したいと思います。

 

令和2年2月18日

林英紀

4.ロイス自動車製作に興味

 フレデリック・ヘンリー・ロイスが車に興味を持ったのは、1902年である。30代最後のこの年、父の会社の倒産と病のため9歳から働き始め、15歳で就職、寸暇を惜しんで勉学に励み20才で起業してずっと働いてきた、という無理がたたりロイスは病に倒れる。医者に転地療法を進められ、長期療養中の足として、フランス製のドコーヴィルという車を買った。当時イギリスは、車に関しフランス、ドイツ等に対して大幅に後れを取っており、国内には実用に耐える自動車は無かったためである。
 これは、1896廃止されるまで存在した「赤旗法」の仕業である。1763年、7年戦争でフランスに勝ったイギリスは、世界中に植民地を有し大英帝国として覇権を握った。植民地からの豊富な物資、資本の蓄積、社会基盤の整備などから、産業革命が起こった。これでさらに経済的に繁栄し、町中に乗合、個人、貨物などの馬車があふれていた。19世紀に蒸気自動車が乗合自動車として登場すると、その騒音、煤煙などの公害だけでなく、ボイラーの爆発事故や、馬たちを驚かせ暴走するなどの問題、また乗合自動車に客を奪われた乗合馬車事業者からの圧力等により1865に「赤旗法」が制定される。これは、自動車が走るときは、前を赤旗保持の随行員が歩き、車の到来を知らせながら走行するというもので、当然スピードは出せない。
 フランスでは、ゴットリーブ・ダイムラーから技術を得て、プジョー、パナールなどのメーカーが1880年代から台頭していた。特にパナールは1890年代に、フロントエンジン・リアドライブ方式を考案し、現代の車の原型を作ったメーカーで、現在は軍用車両の生産をしている。
 さて、ロイスがロンドン・ロード・マンチェスターの貨物駅で受け取ったドコーヴィルの車は、どうしても動かず、4人の男に頼み、クック・ストリートにある彼の事務所まで押してもらった。
 これで自動車に興味を持ったロイスは、その天才たる所以の飽くことなき好奇心に駆られて詳細に調べ、このドコーヴィルを含めた自動車の機構に、あまりにも誤りが多いことに驚いた。そこで、その機構の問題点の解明にのり出し、自分で自動車を作るべきだと考えるようになった。
 そのころ、電気機械と、起重機の仕事は次第に下降線をたどっていた。人件費の安いドイツやアメリカの製品に、シェアを奪われてきたからである。ちょうど、起重機用電動機と鋳造の工場がトラフォード・パークの工場に移転したので、クック・ストリートの工場には空きスペースができていた。彼はここでまず3台の試作車を作り、量産型の原型にしようと考えた。

 さて次回は、FHロイスがクレアモントの反対を押し切って自動車造りを始め、ロールス卿に出会う経緯について、記述したいと思います。

令和2年2月13日
林英紀

3.ロイスの半生(起業期)

 フレデリック・ヘンリー・ロイスは、20才で起業した。前回の補足をすると、エレクトリックライティング&パワージェネレーションカンパニー時代は、1882~83年に施行された、ロンドンの街灯を電灯にする(それまではガス灯であったと思われる)という前例のない計画に携わり、その知識と技術を買われてヘッドハンティングされたランカシャー・マキシム・ウエスタン・カンパニーでは、リバプールの街灯化計画に於いては主任電気技師を務める。この会社は1年半で倒産、ロイスはそれまで貯めた20ポンドを元手に、「ロイス&カンパニー」を設立した。これは、大手電機メーカーにランプホルダーやフィラメントといったパーツを卸す会社であった。他文献では、「1884年、FHロイス&マンチェスター機械技師会社を設立、電動クレーンや発電機を製造する会社、を設立」となっているが、これは会社が発展してからの名称と、業績によるものであると思われる。

 この時FHロイスは、まだ弱冠20才であった。この時、エンジニア仲間で、裕福な医者の息子だった、アーネスト・アレクサンダー・クレアモントに50ポンド出資させて社長にしたが、技術面ではロイスが主導権を握っていた。

 1891年スパークが飛ばず耐久性も高い直流発電機と、直流電動機を開発、粉塵爆発に悩まされていた製粉工場や炭鉱などから多くの注文を受け、会社の経営は軌道に乗った。ここにセトライト氏がロイスを天才と賞する才能:①物事に対する好奇心➁不完全であることを認識する心➂どのような改良が可能か考える洞察力④実行に移す能力、が発揮されている。後にロイスの設計したエンジンが、きわめてオーソドックスな機構であった事より「彼には独創的な仕事が出来ない」等の諸説もあるが、それが誤りであることがここで証明される。また、上記に「耐久性も高い」と表現されているように、ロイスが100年160万キロ走る車を作ることになる要素が、ここに垣間見える。

 ロイスは1894に会社は新たな資本を募って増資、FHロイスは、ミニー・プントという女性と結婚、ナッツフォードに家を新築した。また、それまで人力に頼っていたクレーンを電動化し、その電動起重機がそのまま日本で真似されるくらい、その名は海外まで届いた。

 セトライトは「自社の起重機が日本でそのままマネされる名誉をうける大会社に成長した」と記している。この表現を見ると、明治維新(1867)から20数年後すでに日本の工業技術力は世界で認められていたことになり、日本の文明開化のスピードがいかに速かったかを想像させる。実際、屋井先蔵は1887年に世界で初めて液の漏れない乾電池の製作に成功、豊田佐吉による豊田式自動織機の発明も1895年である。

 のち、ロールス・ロイス社の社訓となる「正しくなされしこと ささやかなりしとも けだかし(ラテン語の日本語訳)」を自ら実行し、ロイスは、セトライトが「ロイスは一生夢中で働き世間と交流する時間はほとんどなかった」と記しているように、寝食以外は設計室と現場を往復するのみで、機械造りに専念した。この会社で、親友のクレアモントは、マネージメントの全てを行い、「FHロイス&マンチェスター機械技師会社」は上記の通り大会社となる。

 

 さて次回は、FHロイスが初めて自動車を購入し、自動車造りを始め、ロールス卿に出会う経緯について、記述したいと思います。

 

令和2年2月10日

林英紀記

 

2.ロイス氏の半生(幼少~青年期)

 フレデリック・ヘンリー・ロイスは、ハンティンドンシャーのアルウオルトンで、製粉業を営んでいたヘンリー・ジェームス・ロイスの5男として、1863年に生まれた。

 18世紀に始まった産業革命で、織物業が進化、製鉄業が格段に成長し、蒸気機関は動力源の刷新をもたらせた。19世紀になると、1921年にファラデーにより電気モーターが発明され、都市ガスの普及は、ガスをエネルギーとしたレシプロエンジンの開発につながった。

 彼が生まれた1860年代は、60年にベルギーのルノワールが、蒸気機関と似た構造のエンジンを開発、62年にフランスのロシャスが4ストロークエンジンの特許を取得、64年にドイツのオットーがエンジン製造に成功し、67年のパリ万博で金賞を受賞するなど、様々なガスエンジンが、産業用として普及し始めた時代である。

 4歳の時父ジェームス・ロイスの製粉工場は資金不足から機械化に遅れて倒産、一家はロンドンに引っ越した。当時の英国では、急速に発展したロンドンに、仕事を求めて国内中の生活困窮者が集まるとも言われていた。ここで、父ジェームス・ロイスは病気となり、F.H.ロイスは9才で新聞配達として働かざるを得なくなった。この結果11歳まで学校に通えず、通い始めてからも電報配達の仕事との両立が困難で、休みがちであったという。

 父が病死し、親戚の中で唯一裕福だった叔母の援助を受け、ピーターバーバラにある、グレート・ノーザン鉄道の機関車工場に15歳の時就職する。働きながら独学でフランス語や、機械の理論などを勉強するが限界を感じ、工業専門学校に聴講生として入学。当時最先端の電気に関して熱心に学んだ。

 18歳の時援助してくれた叔母が亡くなり、FHロイスはリーズに移って小さな工具メーカーに就職した。この年は、「自動車の父」と言われるカールベンツが、2ストロークガスエンジンに関する最初の特許を取った1879年の2年後である。因みに、ドイツではゴットリーブ・ダイムラーと、ウイルヘルム・マイバッハも同様の発明をしていたが互いに知らず、最初の特許を取ったのはベンツであった。ダイムラーはしかし、霧吹き型のキャブレターを備えた4ストロークのガソリンエンジンを開発し、1885に特許を取得する。

 自転車が趣味であったベンツは、3本のスポークホイールの後輪の間に4サイクルのガソリンエンジンを置き、最新式のコイル点火装置を備え、水タンクへの自然対流式冷却方式水冷の、長時間自走できる自動車を発明した。1886年1月29日、「ガスを燃料とする自動車(ドイツ語の直訳)」の特許が発給した。これは世界で初めてガソリンを動力とする車両に対する特許で、この日は「自動車の誕生した記念日」ともいわれる。奇しくもダイムラーもこの年ガソリン動力車両を発明していた。当時、電気、蒸気機関を利用した自動車も盛んに試作されていたが、ここでガソリンをエネルギーとする内燃機関の優位性が明瞭となる。

 さてFHロイスは、工具メーカーでは得るものがなく、再びロンドンに戻った。そこで電気に関する知識を認められ、エレクトリック・ライティング&パワージェネレーティングカンパニーに就職できた。ここでもさらに電気技術の習得に努めて才能が開花、ランカシャー・マキシム・ウエスタン・カンパニーにヘッドハンティングされる。しかしこの会社は1年半で倒産、ロイスはそれまで貯めた20ポンドを元手に、「ロイス&カンパニー」を設立した。これは、大手電機メーカーにランプホルダーやフィラメントといったパーツを卸す会社であった。FHロイスは、この時まだ20代であった。

 

 さて次回は、FHロイスが電気機械メーカーとして成功し、自動車に興味を持つまでの20年について、記述したいと思います。

令和2年2月7

林英紀記

1.天才とは

 フレデリック・ヘンリー・ロイスは、天才であったと、高斎正訳「ロールスロイス」の著者、レオナード・セトライト氏は記している。では、天才とはなんであるか?という疑問に対し、セトライトは「何パーセントかの霊感と、何パーセントかの努力からなるとする、平凡な定義には同感できない」とし、「天才の条件とは、物事に対する好奇心と、不完全であることをはっきりと認識する心である」としている。また、「ロイスの名前を世界的に有名にしたのは、まさに彼のこのような性格であり、どのような改良が可能かを考える洞察力とそれを実行に移す能力である」と続けている。

 何かの分野で、類まれな能力ー天才と呼ばれる人物は、我々の周りに時に存在する。しかし、その全てが歴史に残るような偉業を達成するとは限らない。日本では、勉強ができる、高学歴、等が人間の優秀さを示す指標とする傾向がある。しかしこれは、単なる「頭の知能指数:intelligence index」である。欧米では同時に「心の知能指数:emotional intelligence」が重要視され、企業が人を採用する時などに用いられる。この心の知能指数に関しては、様々な解釈があるが、最も解りやすく説明されているものを採用すると、次の5つの要素からなる。

 ①判断力 ②自制心 ③忍耐力 ④社会性 ⑤他人への思いやり

 この5つの要素を、各20点として自己採点すれば、自分の「心の知能指数」を知ることができる。

 さて、ロイス氏が栄光の道を歩くことが出来たのは、上に述べたように、彼の頭脳が天才であった事に加え、心の知能指数も非常に高かった事にも由来する。ロイス氏は、天才科学者であるうえに、純粋な天才技術者でもあった。しかし彼が時をして出会う、チャールズ・スチュアート・ロールスの財力とクロード・ジョンソンの商才に恵まれなかったら、その才能を発揮し、100年160万キロ走る車を作り上げることは出来なかったと考えられる。まさに絶妙なタイミングでこういう出会いに恵まれるというのは、ロイス氏の心の知能指数の高さに由来すると思われる。

 

   さて、次回はロイスの生い立ちと、車に興味を持つまでの半生を記載したいと思います。

令和2年2月6日

林英紀記