投稿者「林英紀」のアーカイブ

12.名車シルバーゴースト誕生

 直列6気筒エンジンのねじれ振動の問題を解決しようと、いろいろ骨をおり、頭を使い果たしたロイスは、2気筒を3個つなげるそれまでのやり方では解決しないという結論に達した。そこで、全く新しいエンジンの設計に取り掛かった。ロイスが最初に造ったエンジンは、2気筒10馬力、3気筒15馬力、4気筒20馬力であった。その内、2気筒とそれを2個繋げた4気筒は、振動の問題があった。また、その後生産した2気筒を3個連ねた6気筒は、クランクシャフトのねじり振動も起きていたのであった。生産効率が悪く6台で生産中止されたが、3気筒には振動の問題はなかったが、偶力(物体の異なる2点に働く力で、回転運動を生じる)を抑える必要があった。
ロイスは、3気筒を2個連ねるというやり方で、振動を抑え、偶力を相殺し、2つの問題を解決した。しかしこの形式では荷重特性が不均衡であるため、クランクシャフトを長く頑丈にし、7個のメインベアリングで支えるようにした。また、このシャフトを中空とし、圧力をかけてオイルをベアリングに送り込むシステムとしたが、これは、お蔵入りしたV8気筒エンジンに採用したものであった。
しかし、このエンジンの最大の特徴は、SV(サイドバルブ)の採用である。それまでのOHV(オーバーヘッドバルブ)から、SVにしたことによりプッシュロッドが無くなり、騒音の一つが減った。さらにタペットを調整して騒音をさらに少なくした。ロイスはチェーン駆動に反対で、クランクシャフトやデストリビューターを駆動するのはギア、冷却ファンを回すのにはベルトを使い、さらに騒音は減った。
このエンジンの開発は、1906年の夏から冬にかけて行われたが。試作車が出来上がると、ロイスはそのベアシャーシーに乗って帰宅し、週末に苛酷なテストを繰り返した。ある週末、試作車のエンジンブロックが割れた。ロイスは月曜の朝工場に行き、そこにあった13個のエンジンブロックを、14ポンドのハンマーで叩き割った。そして詳細に断面を調べ、鋳造時の中心の位置がずれているのを突き止め、直ちに解決策を指示したという。
こうして、ロイスのどんな細かな問題でも発見、そして分析、的確に解決の答えを出すという、素晴らしい能力:①で述べた「天才」としての能力、が発揮され、当時類を見ない静かなエンジンが出来上がった。

また、このエンジンの補機類がまた、素晴らしかった。
電気系統の品質は、世界で初めて火花の飛ばないモーターと発電機を作り上げ、電機メーカーとして成功したロイスの得意分野だけあって、他のメーカーに比べ、飛びぬけて優れていた。
デストリビューター、振動式点火コイル、高圧発電機はロイス自身が造ったものであった。当時はコイルを使ってエンジンを始動、それから発電機の電気でプラグに火を飛ばして走り続けるという方法で、蓄電池の放電を少なくした。しかし発電機の性能が悪かったので、トップギアでゆっくり走る時は両方の点火装置のスイッチを入れておくことが必要であった。後の話となるが、1919年になると発電機の性能が向上し、前照灯と始動モーターに十分な電気が供給できるようになる。
この新エンジンの振動式点火コイルは、強い火花を飛ばすことが出来たので、点火時期調節レバーを動かして、デストリビューターの接点をぱちぱちと断続してやれば、6気筒のどれかのシリンダーの中に残っているガソリンに点火し、エンジンが始動した。こうすると、重いクランクを人力で回したり、蓄電量の少ないバッテリ-の電気を消費して始動モーターを使うことなく、エンジンを始動させることが出来た。
筆者も、あるクラシックカーの集まりに1935年製25/30に乗って行った時、このことを車に詳しい人から質問されたが、実演はしていない。
制動装置(ブレーキ関係)の機構も、他のどの自動車より洗練され、的確に作動した。当時ロールスロイスに乗る人たちは、ステアリング、シフトレバーなど主な操作機器から、ごく小さなレバーやスイッチ類まで、優れた工作機械のように正確に加工され、取り付けられていることに感動した。
この車が最初に紹介されたのは、1906年11月15日、ロンドン・オリンピア・ショーで、そこで人々は美しく輝くパルテノングリルに感動し、大好評を得た。しかし、それにも増して、ロールスロイスが一般大衆の注目と称賛を浴び、世界一の称号を得ることとなったのは、1907年7月にクロード・ジョンソン自らが行った苛酷なテスト走行の結果である。
このテストは、クロード・ジョンソンも所属するRAC(王立自動車協会)の監督のもとに行われた。この時に使用した40/50型は、新設計により製造されたシャーシーの内、13台目のものに銀色に塗装されたツーリングボディを乗せ、金属類は全て銀メッキがなされていた。そしてこの車のフロントグラス下には、「シルバーゴースト」と記した鋳物のプレートが燦然と輝いていた。
他の自動車が、けたたましいエンジン音などを発しながら走ったこの時代、音もなく静かに現れるこの車に「シルバーゴースト」の車名はピッタリであった。また、マネージャーとしての才能に長けていたクロード・ジョンソンは、このテストの期間中、大衆の注目を集めるように様々な努力をした。
テスト走行の初めはベクスヒルからグラスゴー間往復、計3200キロで行われ、直結の3速と、オーバードライブの4速だけを使って、RACが開催予定としていた:スコットランド・トライアルの様式で走った。この後、シルバーゴーストは分解され、RACの技術者によって細かく検査された。技術者たちはわずかな欠陥も見逃すまいと、文字通り微に入り細を穿って検査を施行したが、1つのピストンリングにいくらかのガタがあった他は、すべて完全であると報告した。
このシルバーゴーストは再び組み立てられ、スコットランド・トライアルに出場、速度、信頼性、燃費の総合評価で金賞を獲得した。その後ロンドンーグラスゴー間を何度も往復し、24,000キロ走るまで、休みなくテストが続けられた。この間のトラブルは、スコットランド・トライアル中に、燃料コックが緩んで「止」の位置になった時だけであった。シルバーゴーストは再び分解され、同じ検査を受けた。RACの技術者は、操向機構の一部にわずかな摩耗がみられ、冷却水のポンプのパッキンを交換する必要があることを指摘した。これは、すぐ修理するほどのものではなかったが、ジョンソンは交換を命じ、部品代は2ポンド2ペンス7シリング(現在の\2,288)であった。

また、その時の燃費は1Lあたり6.3キロであった。当時のガソリンはオクタン価60~70であったと考えられ、7,036cc直6エンジンでのこの数字には驚かされる。
この、数々の栄光に飾られた40/50シルバーゴーストは、その後何人かのオーナーの手を経て、80万キロ走破、1948年にロールスロイス社に買い戻され、現在でも走行可能である。何らかのクラシックカーのイベントで先頭を走ったという話も聞いたことがある。
⑩でも述べさせていただいた通り、「究極の経済車」であることは間違いない。

時は、新型コロナウイルスが地球上に蔓延し、街から車が消え、工場の生産も止まり、CO2の排出も自然に削減されている。ひょっとしたら、地球が自分の身を守るためにこのウィルスを創造したのかもしれない。GMの創始者:アルフレッド・スローンが始めた「計画的陳腐化」の企業戦略にのせられて、次々と新車に乗り換える現代人に警鐘を鳴らしているのかもしれない。
少なくとも20世紀初頭の、FHロイス氏や、クロード・ジョンソンをはじめとするRACのメンバー達、また、車を発明したカール・ベンツ、車を庶民のものにするために努力したヘンリー・フォードらは、人々の役に立ち、社会貢献するのが目的で、車造りに専念していたことは確かである。

令和2年4月3日     
           林英紀

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11.名車シルバーゴースト誕生まで

 1906年3月ロールスロイス車の製造を担当していた:Royce Ltd.と、販売を担当していたS.Rolls Co.は、正式に合併、新たにRolls-Royce Ltd.となった。だだしこの時点では、Royce Ltd.中には電気部品と電動クレーン部門が相変わらず稼働しており、これは合併することなく独立した企業として残された。この部門がロールスロイス社に合併されるのは、1933年にF.H.Royceが病死してから後のことである。

 

 (唯一の失敗ではあるが、革新的なV8エンジン製作成功)

 クロードジョンソンは、最初はロールスロイス車に大して注目していなかった。ロールスロイスの代理店になるためには、他社の車の販売を止めなければならないからである。しかしこの車の真価がわかるにつれ、自ら進んで販売に力を入れるようになった。彼は30馬力車を駆って、苛酷なスコットランド・リライアビリティ・トライアルに出場して、ロールスロイス車の名を広め、ヨーロッパやアメリカでも多くの競技に出場して、かなりの成績をおさめた。ロールス卿も、アメリカで数々のレースに出場し、ロールスロイス車の名前を弘めた。

 ジョンソンは次に、「エンジンの存在を感じさせないような、豪華なタウンカー」を造ってくれ、とロイスに頼んだ。これは、友人のヘンリー・ハ―ムスワース卿のアイディアであり、電気自動車との市場競争が背景にある。1905年当時は、静かで乗り心地が良く、扱いやすさという面では、市街地では電気自動車に分があった。しかもガソリン車は、エンジンをかけて動き出すまでの操作が大変であり、その騒音等は馬を驚かせ、市内を騒がせることが度々あったのである。つまり、エンジンが見えず、振動が感じられず、音がせず、臭いもしない自動車:「馬無し馬車」であり、19世紀後半にベンツが開発した初期の自動車のようなボンネットなしの骨董的型式車である。しかも、当時ロールスロイス車が世間から評価されている特徴を全て備え、当時のロンドン市内の制限速度である時速32キロを絶対に超えないという条件付きである。

 そこでロイスは、4気筒ずつのシリンダー列が90度になったV8気筒、3.5リッターのエンジンを開発した。そしてこのエンジンを床下に積み、前述の要求を全て満たした2台の新型車が造られ、華々しく宣伝された。しかし、この新型車「リーガリミット」は完全に商業的には失敗であった。フロントにエンジンルームのない「馬無し馬車」のスタイルは、間が抜けて見え、全く顧客に人気がなかった。やはり、当時最先端であるガソリン車を購入するお金持ちのエリート層は、立派なエンジンルームが前にあるスタイルを好んだのである。しかも、「ロールスロイス社は、なぜ顧客の良心を信用しないのか?」と、世間から非難を浴びた。英国紳士は、あくまでも制限速度を守り、人の迷惑になるような走りをしないことに、誇りを持っていたからである。

 世界で初めてV8エンジンを市販車に搭載したのは、1909年フランスのド・ディオン・ブートンとなっているが、このエンジンは加工精度や吸排気系統の設計に難があり、パワーもなく、誠に不出来であった。実用水準のV8気筒エンジンを開発して、商業的に大成功したのは、1914年アメリカのキャデラックである。ロイスはこれより9年前も前に、このV8エンジンを実用化していたのである。もしこの不細工な馬無し馬車である「リーガリミット」が市販され商業的に成功していたら「世界で初めてV8エンジンを市販車に搭載した」という栄誉は、ロールスロイス社に降りていたはずである。この点においても、「ロイスは、独創的な仕事が出来ない」という説が誤りであり、「技術的天才」だけでなく「設計的天才」であったともいえる。

 やはり前にエンジンが入った立派なフェンダーがついている方が、自動車らしいという美的意識が、当時の人たちだけでなく現代人でも一般的であると思われる。現在でも、前に美しいパルテノングリルがつき、フロントノーズの長いロールスロイスは、エクスクルーシブ(排他的)で特別な存在であることは確かである。

(ジョンソン6気筒車に注力:6気筒車の欠点)

 さて、ジョンソンはこの失敗に懲りて、お気に入りの6気筒30馬力の販売に全力を注ぐことにした。しかもイギリス国内のネイピア社をはじめとする他メーカーとの販売競争も激化して来た。1904年から5年の間に、イギリス国内だけで62もの6気筒車のメーカーが存在した。この中に、フォード・モーター(アメリカから輸入)のモデルKも含まれる。ネイピア社は、ロールスロイス社が➈で記述したように、1904~1906の間に100台近く生産したのに対し、1903年すでに250台生産し、1904年に6気筒車を発売すると発表。そして4.9リッター、18hpのこの車はロールスロイス同様「驚くほどスムースで柔軟」と言われ、ネイピア社最初の商業的に成功したモデルとなった。

 この販売競争に勝つためには、ロールスロイス6気筒車は絶対に克服しなければならない、機械的欠点が存在した。それは、2気筒を3個連ねた6気筒エンジン特有のねじり振動で、そのためにクランクシャフトに故障が多かった。ロイスは、このねじり振動が実用回転域で起きないようにいろいろ骨をおった。しかし1905年末、頭を使い果たした彼は、これを克服するには全く新しいエンジンを設計しなおさなければならない、という結論に達した。

 この結果誕生したのが、ロールスロイスに世界最高の自動車としての地位を確立させ、20年近くその座を譲らなかった40/50型:シルバーゴーストである。

 

 さて、次回はこの20世紀最高の名車「シルバーゴースト」開発の秘密について、記載したいと思います。

 

 令和2年3月17日                

 林英紀

10. パリ・サロン展と、TTレース

 1904年12月9日~25日に開かれた、パリ・サロン展に展示された数台のロールスロイスの内、コーチビルダー:ホランド&ホランドにより豪華なボディが架装された20phは、人々を魅了し、「エレガンス&コンフォート・メダル」を獲得した。これで、従来は取るに足らない物とされていた英国車が、世界の自動車メーカーに認識され、商業的にも大成功であった。

 1905年1月、ロンドン中心部、リージェントストリートとコンジットストリートの交差点にショールームをオープンした。ここは、ロールスロイス社の作ったボディ・シャーシーに、どんなボディを袈装するか?顧客と細かい打ち合わせをする場所となった。第二次世界大戦後、自社でスタンダードスチールボディの製造を開始するまで、ロールスロイス社はエンジン・シャーシーのみを供給し、ボディは名門コーチビルダーが顧客の好みに応じて1台1台手造りするという、超高級車の方式を貫いた。当初このショールームでほとんどの顧客に勧められたのが、1710年創業、馬車の世界でも有名であった名門コーチビルダー:「ベーカー」の車体であった。

 こういう記載をすると、「イギリスには歴史の長い老舗企業が多い」というイメージがあるが、実は現在、世界で老舗企業が一番多い国は日本なのである。創業200年以上の企業は世界41か国で5586社、そのうち日本は3146社と、全体の56%を占める。次がドイツの837社、オランダ222社、フランス196社、アメリカ14社、と続き、あとの国は10社未満である。因みに、筆者が社長を務める清酒「三谷春」を醸造する:林酒造(株)は1806年創業で、この中に入る。

 イギリスの企業が10社もないのは、筆者も驚いた。記憶は確かでないが、20年ほど前はドイツに続いて300社ほどあったような気がする。イギリスは第二次世界大戦後、戦争に勝った為に膨大な借金を抱えることになった。しかも、戦後長く政権を支配した労働党は、「ゆりかごから墓場まで」という高福祉政策を取った。企業の設備が老朽化していた上に、この政策で若者の労働意欲も低下し、経済的になかなか立ち直れなかった。これに対し軍事政権が倒された日本は、100000%ともいわれるインフレにより、事実上借金は棒引き(1000兆→1兆円)になった。アメリカに食糧援助を受けるほど、国民すべてが数年間窮乏生活を送ることにはなったが、借金を引きずることなく、日本は驚異の経済復興を果たした。結果として戦争に負けて良かったのかもしれない。これは、ドイツにも言える事だと思われる。

 近年、イギリスの景気が見違えるように良くなったのは、ロールスロイスがBMWに、ベントレーがVWグループに身売りされるなど、老舗企業の多くが外国資本に買収され、世界から多くのマネーがイギリスに集まったことによる。ロンドンの老舗デパート:ハロッズは、エジプト生まれでイギリスに帰化したアラブの実業家:モハメッド・アルファイドに1984年に買収されたが、この人こそ故ダイアナ元チャールズ皇太子妃のボーイフレンドとされる、ドディ・アルファイドの父である。モハメド・アルファイドは1972年にスコットランドの城と、その周辺の土地を購入、巨額の資金をスコットランドの観光開発事業に投入している。このように、イギリスは世界の投資を受け入れ、不景気から立ち直り、薄汚れたロンドンの街も、新しく美しい街に生まれ変わった。現在では、世界のお金持ちが集まる街となり、物価も高く、教育面でも、ケンブリッジ、オックスフォード大は、常にハーバード、MITなどのアメリカの超一流大学と難易度トップを争っている。

 

 さて、ロールス卿は、車の宣伝効果として、レースで好成績を上げることが一番であると考え、様々なレースに出場して経験を積んだ。そして、1905年9月にイギリスのマン島で行われるツーリスト・トロフィーレース(通称TTレース)に、ロールスロイス車を出すことに決め、ロイスに頼んで2台の4気筒車に特別な改造をしてもらった。

 このレースは、車の速さだけを競うレースではなく、経済性、信頼性、その他もろもろの性能の開発が目的であったため、大排気量車のオンパレードにはならなかった。しかるに、ボディは完全な4~5座席のツーリングカーのタイプでなければならず、レースにおいてはドライバー、整備士以外に大人4人分の重りを置いた。それに密かに決められた燃料制限もあった。しかしロイスはこのような制限は軽くクリアーする自信を持っていた。

 ロイスは、他メーカーに先駆けて、軽くて強いニッケル鋼をシャーシーと車軸に採用していたので、重量制限は問題にならなかった。燃料消費に関しては、先進的な機構の「ロールスロイス」社製、気化器の製造・組み立てに細心の注意を払った。もともと機械的損失が少なく、燃料を食わない車であったが、ロイスは従来の3段変速に、オーバードライブを付けて4速とした。

 レース当日の1週間前にマン島で練習が始まるまで、殆どの自動車通は、ロールスロイス車はこのレースで好成績を挙げるとは考えていなかった。ロールスロイスは静かで扱いやすい車であるが、スピードが出るとは思っていなかったからである。しかし、路面が悪く登り降りの激しい、1周83.7キロのコースを、ロールス卿はこのロイスが改造した20hp の4気筒車で、平均速度53.1キロ、リッターあたり燃費9.2キロで、練習走行を行ってみせ、人々の予想を覆した。

 1905年の時点で、この「リッターあたり9.2キロ」というのは、筆者も驚かされる。筆者の所有する1950~2000年製ロールスロイスの燃費は、多くがリッターあたり3キロ位である。1938製V12気筒、排気量7.4リッターのファントムⅢに至っては、2キロである。この初期のロールスロイスがほとんど今でも走行可能なことを考えると、ロイスが当時造った車は、「100年、160万キロ走り、しかも燃費はリッターあたり9.2キロ」という、長い意味での超経済車であったと結論できる。

 さて、主催者から燃料消費率が「リッターあたり7.98キロ以上」との発表があり、ロールス卿達の自信はさらに深まった。そうして、この2台のロールスロイスが参加して「TTレース」が始まった。しかし、ロールス卿は、興奮のあまり技術以上のことをして、2キロ余りで変速機を壊し、リタイアした。そこで、期待はもう一人のドライバー:ノージーの双肩にかかってきた。彼は慎重かつ冷静な走行を見せ、3周目にこの日最高のラップタイムをたたき出したが、「アロル・ジョンストン」に、平均時速0.3キロ遅いタイムで、2位となった。ロールス卿にとっては悔しい結果ではあったが、それまで無名の新しい自動車としては上出来であり、このレースはロールスロイス社の発展に大いに貢献した。実際、翌年の「TTレース」で、ロールスロイスは見事優勝を飾った。

 

 さて次は、「不滅の名車、シルバーゴースト」の誕生について、記載したいと思います。

 

 令和2年3月13日                

   林 英紀

9.ロイスの哲学

 「20世紀初頭の車など、やっと走るのが精一杯で、そのうち壊れる」と、現代の人は思うに違いない。この推測は間違ってはいない。実際ロールス卿が愛した先進的なパナールやプジヨーが1905から1930頃にかけては、次々とスクラップになっていった。しかし、顧客のもとに届けられたロールスロイスは、初期の物であっても変わらず走り続け、中には数十万キロノントラブルな物もあった。

 これは、ロイスの哲学としての、「品質こそが最優先されるべきである」という考えのもと、入手し得る最良の素材を、最高の精度で加工し、細心の注意を放って組み立てられていたからである。

 後のモデル、シルバーゴーストの場合で言うと、重さ14.5kgの美しく磨かれたブレーキドラムの素材が、削る前は48kgもあった。コネクティングロッドに至っては、3.6kgの鍛造物の中心部だけを使って、0.9kgとなり、表面はピカピカに磨き上げられた。鍛造する場合は、完成品の分子の並びが最高になるような方法がとられた。また、削り出しでない物は、やすりをかけた後、磨き上げ、拡大鏡を使って表面に傷がないかチェックされた。

 これこそ、後のロールスロイス社の社是となった

“quidvis recte factum, quamvis humile, praeclarum”(ラテン語)

「正しく行われしこと ささやかなりしとも けだかし」(日本語訳)

という言葉に象徴される。

 ロイスの車造りは、素材、加工、組み立て全てに正確性を追求し、その結果数十年どころか100年変わらぬ信頼性がもたらされることとなった。

 ここで、多くの伝説や、真実が生まれている。

「英国人は、一生涯で必ず一回、ロールスロイスに乗る」これは、ロールスロイス車のエンジン・シャーシーがいつまでも、変わらず動き続けるために、何度も改造され、最終的に霊柩車となるからであった。

 「わが社は、絶対に悪い車は作らない。なぜなら悪い車は門番が外に出さないから」

と、いうのもある。

 また、スペインの片田舎で(アフリカの砂漠という話もある)プロペラシャフトが折れて、本社に連絡したら、ヘリコプターが飛んできて修理してくれた。後日、請求書が送ってこないので電話したら、その答えが「無料です。当社の車には故障というものはありません」であったという。

 他の話であるが、イギリスから南フランスへドライブ旅行に来て、車の調子が悪くなったので、夜に本社に連絡。翌日、直るのには夕方までかかると思い、バーで酒を飲んで昼寝をした後、様子を聞いたら「午前中に修理に来られて、帰られました」との返答。無事に旅行が終わって、修理代を聞いたら「プラグを変えた代金2ポンドです。当初の車は壊れません」との返答だったという。これと似た話が北海道でもあったそうである。

 また、アメリカ、マサチューセッツ州、スプリングフィールドに住むアレン・スウィフト氏は、1928年に父親からプレゼントされた、ロールスロイス・ピカデリーP1・ロードスターを、2005年に102歳で他界するまで78年乗り続け、1994年にロールスロイス社から賞を贈られている。

 余談であるが、この1928年というと、「計画的陳腐化」という経営手法を打ち出して、GMを世界一の自動車メーカーに押し上げた、アルフレッド・スローンが、社長に就任した1923年の5年後である。

 スローンは、次々と新型車を発売(モデルチェンジと後に呼ばれる)し、旧型車を陳腐化させるという手法により、企業に莫大な収益をもたらせた。しかも彼は、シボレー社から始め、ポンティアック、オールズモビル、ビュイック、キャデラックと次々に買収したメーカーで、大衆車から高級車までの系列を構築した。そして、買い替えの時は「もう少し高級な車に乗りたい」という消費者の心理を巧みに突いて、一つ上のランクの系列車種を勧め、顧客がGMグループから逃げないよう図った。こうして彼は、GMを世界一の自動車メーカーに育て上げた。

 この「計画的陳腐化」は、現代の企業経営においては、完全に一般化している。携帯の型やコンピューターのOSが、次々と新しいものになるだけでなく、筆者の医療介護の領域でも、「このCTの基盤は、もう作っていない」とか、「介護保険請求ソフトが5年で使えなくなる」とか、消費者はまだ十分使えるはずの物を、買い替えさせられる。

 企業倫理が、①いいものを作れば売れる、から→➁売れるものを作る、そして→➂収益を上げた企業が生き残る、という風に変貌を遂げ、現代の消費者が「計画的陳腐化」の罠にはまったことが、地球温暖化の一因になっていることは確かである。車の買い替えのサイクルだけでなく、家の建て替えのサイクルが、先進国で一番早いといわれる日本人も、考えを改める時期がいつか到来すると考えられる。この意味において、初期投資は重いが100年160万キロ走るロールスロイスは、車史上最も優れた車であったと評価される時がいつか来るのではないかとも、思われる。しかも初期のローススロイスが、意外に燃費が良かったという事実もあり、次回はこれに言及する。

 

 さて、このロイスが作り、最初にロールスロイス社が売り出した車を運転した人々はこぞって称賛し、発足したばかりの会社は大成功を収めた。結局、1904~1906に生産された車は、ロイスの最初の3台を含まず、10hpが13台、15hpが6台、20hpが37台、30hpが40台であった。15馬力は、これだけのために違うエンジンブロックを作らなければならなかったので、非効率とされ6台だけで生産を終了した。

 

 さて、次回は展示会や、レースで真価を発揮したロールスロイス車のことを、記述しようと思います。

 

 令和2年3月9日

   林英紀

8.パルテノングリル誕生

 ロイスが初めて造った2気筒10馬力の車は確かに優れていた。しかしこれは「2気筒車としては」という但し書きのもとにであった。2気筒車よりパワーのある4気筒車のほうがよりスムーズで取り回し易いことは、揺るぎのない事実である。

 筆者も1936年、4600cc直6気筒の25/30と、1938年、7400ccv12気筒のファントムⅢを運転することがあるが、後者の方が、パワーがある分格段に運転しやすい。一番難しい坂道発進の際ファントムⅢでは、ステアリング軸についているスロットルを開いて回転を上げておき、クラッチを繋いでサイドブレーキを解除すれば、右足のアクセルワーク無しでできる。パワーのない25/30でこれをすると、傾斜の強い斜面では、エンストの恐れがある。

 ロイスは、要求に応えるために、まず2気筒をさらに信頼性の高いものとすることを考え、クランクシャフトを、2ベアリングから3ベアリングにした。そして、同じクランクケースを持つ2気筒のブロックを、2個つないで20馬力を、3個つないで30馬力を作った。また2+1気筒という変則デザインの3気筒15馬力も、これら同様1904年中に作製した。短い期間にこれだけのものが作れたのは、あくまでも造りがオーソドックスで、共通の部品を使い、排気量アップはシリンダーの数を増やすという方式を取ったためである。これはもともとロイスが頭の中に描いていたものであった。

 技術者であるロイスと、資本家でありレーサーとしてロールスロイス車の宣伝に携わるロールスの陰で、クロード・ジョンソンは抜群のビジネスマネージメント能力を発揮した。このジョンソンと、ロールスは、車を美しくデザインすることを、ロイスにアドバイスする。いくら機械的に優れていても、外観が悪ければ顧客にそっぽを向かれる恐れがあるからである。

 この「見た目の美しさ」に生涯をかけた車の設計者がいる。それが、エットーレ・ブガッティである。ブガッティは、車の外観や内装だけでなく、エンジンそのものも見た目の美しさにこだわった。馬蹄型の美しいグリルなどのデザインもさることながら、エンジンフードを開けた時にそこにあるエンジンの美しさは、他に類を見ない。

 エットーレ・ブガッティの父は、家具、宝飾品のデザイナーで、芸術的才能は家系からくるものでもあり、見た目の美しさだけでなく、機能的にも最高の車を作り上げた。「自動車史上最高に美しい車」と専門筋から言われるのが、全長7mのボディ長半分以上に12.763ℓのエンジンを積む、ロワイヤル・クーペ・ナポレオンである。これはエットーレが機関系を、エットーレの息子で天才デザイナーであったジャンが、外装のデザインを手がけたものである。ジャンは後に、33歳の若さで自動車事故の為亡くなる。このクーペは、1930年前半に6台だけ作られたブガッティ・ロワイヤルのうちの1台で、殆ど公道を走ったことがないので、一般にはあまり知られていない。因みに、一時期この6台の内1台が日本に住んでいたが、海外に買われていって今はいない。さて一般的に、市販車で「最も美しい」と言われているのが、ジャガーEタイプであり、これもロングノーズの外観を持つ。のちに、ロングノーズのファントムⅡから、エンジンとラジエターを前に移してノーズが短くなったファントムⅢのことを、セトライト氏は「醜い」と記しているが、馬車の時代から人の乗る位置が後ろにある方が、美しいと感じることは確かである。

 さて、外観の美しさを求めてロイスがたどり着いたのが、あの「パルテノングリル」と呼ばれる、パラディオ式(古代ギリシャ、ローマの神殿建築をもとに、ベネチアの建築家、アンドレ―ア・パラーディオが16世紀に確立した建築様式)のグリルである。これは、1903年に生産を中止したイギリス車のノーフォークが採用していたものとされる。しかし、それに加えエンタシスを採用したのは、ロイスの独創であった。

 エンタシスというのは、まっすぐな長い円柱を下からみると、真ん中がへこんで見えるというような人間の目の錯覚を矯正するために、中央を太くする等、ギリシャの神殿などで採用されている方式のことである。

 パルテノン神殿は、ギリシャの首都アテネの中心部の、小高いアクロポリスの丘の上に立っている。朝日を一番に浴び、夕日を最後まで浴びるのが、白い大理石を使い、約2500年前に建てられたこのパルテノン神殿である。エンタシスの柱は上に向かって少し内側に傾けられている。垂直に立って、屋根の端が乗っている柱の下に立つと、倒れてきそうな錯覚が起きる為である。4隅の柱は内側の柱より、少し太く作られている。これは、両方に開けた空間の柱は、内側の柱より細く見えるからである。また、神殿の床は中央が凸になっている。これは、完全に水平な広い面の上に立つと、真ん中が凹んで見える為である。また、上に乗る三角屋根の縦横の比率も、最も美しく感じるように取られている。このようにパルテノン神殿は、エンタシスを採用して人間が見る目の錯覚を矯正し、安定感と美しさを究極的に追求している建物である。また、この神殿の前に立つと、あらゆる西洋建築のルーツがここにあることを感じさせる。

 この、パルテノングリルは、ラジエターを兼ねていたので、製作に非常に手間と暇がかかった。それにも関わらず、これを採用したのは、ロイスが完全主義者であったからに他ならない。

 後に、このパルテノングリルが空力的に不利であることより、ロイスがこの形を変えようとすると、クロード・ジョンソンは強く反対した「このラジエターの付いてない『ロールスロイス』は、もはや『ロールスロイス』ではない。どんなことがあっても、この形を変えてはならない」と。かくて、このパルテノングリルは、ロールスロイスの象徴として

 100年以上続くこととなる。 

 

 さて次回は、ロールスロイスの車造りのさらなる発展について、記述したいと思います。

 

                          令和2年3月5日

                            林英紀

7.ロールスとロイスの出会い

 ロイスが初めて造った2気筒10馬力の車、3台目のテストを委託されたヘンリー・エドムンズは、パーソンズ・ノンスキッド・タイヤカンパニーの代表として、この車をオートモービル・クラブ・オブ・グレートブリテン・アンド・アイルランド(RAC:ロイヤル・オートモービル・クラブ、の前身)が主催のテストに持ち込んだ。このテストの目的は、ようやく工業製品として認められ始めた自動車が、その性能を向上させるためにはどんなタイヤや、その他の付属品が有効かを確かめることであった。

 パーソンズのノンスキッドタイヤを付けてテストされたロイス車は、素晴らしい成績を修めた。そのテストドライバーの一人に、チャールズ・スチュワート・ロールスという若者がいた。

 レースに命を懸け、もともとスピードの出る車が好きであるロールスにとって、この非力な2気筒10馬力のロイス車は、興味の対象外であったはずである。しかしロールスは、人目を惹く先進性とか、驚異のハイメカニズムなどは何もなく、極めてオーソドックスな造りのこの小さな車に、大きな感銘を受けた。それは、ロールスの経験の中にある2気筒車のイメージを覆す、スムーズで確実な操作性と静かなエンジン音、快適な乗り心地であった。

 もともと機械工学に精通しているロールスは、ロイス車に乗り、細部まで行き渡った「エンジニアの良心」を見逃さなかった。

 

 ⑥で記載した本田宗一郎の話にまた言及するが、ホンダがまだバイク屋の店先に車を並べて売っていたころ、S600という2人乗りのオープンスポーツカーが発売された。当時日本では一流とされたスポーツカーである、プリンス・スカイラインGTBが2000ccで125馬力、トヨペット・コロナハードトップが1600ccで90馬力であったこの時代、ホンダS600は、600ccで57馬力であった。

 バイクで世界一になったホンダが4輪に進出する事を決定した時、本田宗一郎は「同じ4輪作るなら、世界一の車を作る」と決心し、車を作り始める前の1962年に鈴鹿サーキットを開設した。日本で初めて世界に通用するサーキットを作り、1964年にこの600cc57馬力の車を発売した事実は、ホンダが後にF1で無敵となる宗一郎の強い思いと、それ実現化させる為の周到な計画性を物語る。

 

 ロイスの車造りの特徴は、既存のメカニズムを見直し、不備な点に徹底的な磨きをかけ、信頼性を向上させるということであった。従って、極めてオーソドックスな造りでありながら、一つ一つの部品が細部に至るまで正確に加工されており、それに沿うよう職人たちも を鍛え上げられていた。 

 このオーソドックスという言葉に関し、筆者に連想させる言葉がある。

 それは、大阪大学の前身、適塾の始祖、緒方洪庵先生の言葉である。この人の門下生に、慶応大学を創設した福沢諭吉がいる。洪庵先生が、ドイツ医師フ―フェンフェルドの本を訳して「扶氏医戒乃略」という医師の心得を記載した額が、卒業生に配られる。その12箇条の一つに、こういう言葉がある。

一 学術を研精するの外 言行に意を用いて 病者に信任せられんことを 求むべし 然れども 時様の服飾を用い 譫誕の奇説を唱えて 聞達を求むるは 大いに恥じるところなり

 オーソドックスな治療が一番であるという意味である。

 

 ロイスの車の素晴らしさを知ったエドムンズは手紙を書き、ロールスに会いに行くように促したが、ロイスは相変わらず忙しく働いてばかりで、興味を持たなかった。そこで、1904年5月4日、エドムンズはロールスと連れ立ってマンチェスターを訪れ、ミッドランドホテルで、昼食を兼ねて初のロイスとの会談が実現した。

 ロールスはロイスの技術理論、豊かな経験、そして車造りに対する真摯な姿勢と人柄に、ロイスはロールスの理想を求める気高さと、その健全なビジネス哲学に、お互い感銘し理解し合ったのである。そこでロールスは、自分の「世界一の車をつくる」という夢を実現するためには、この14才年上、真面目一筋で技術的天才であるエンジニアの助けを借りることが、最善の道であることを判断した。そこで、ロイスが造った車は、ロールスの会社が一手に販売を引き受けることが決まった。

 ロールスと、ロイスの正式の契約は1904年の12月、会社の正式の設立は1906年3月である。

 

 さて次回は、ロールスロイスの車造りの発展について、記述したいと思います。

 

 令和2年2月27日

  林 英紀

博物館 休業のお知らせ

新型コロナウイルスの国内外での感染拡大を受けて、感染拡大防止のため、2月29日から博物館営業を当面休止させていただきます。

ご迷惑、ご不便をお掛けいたしますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

再開につきましては、決まり次第ホームページにてご案内させていただきます。

 

6.チャールズ・スチュワート・ロールスの半生

 チャールズ・スチュワート・ロールスは1877年8月27日、ロンドン東部、メイフェア―地区、バークリー・スクエアにある豪華な屋敷で、ロード・ランガトック男爵夫妻の三男として生まれた。当時のイギリスは、上流階級と労働者階級が明白に分かれており、同国の資産のほとんどは王室、貴族が所有していた。このあたりが、何度も革命が起きて民主化したフランスと違うところである。

  バークシャーのモーティマー・予備学校に通ったのち、イートン・カレッジに入る。そこで彼はエンジンへの興味を持ち始め、いつも油まみれになっているので、「ダーティー・ロールズ」とあだ名をつけられた。

 油まみれと言えば、ホンダを一代で築いた本田宗一郎を連想させる。1970年アメリカにおいて、世界一厳しい排ガス規制であるマスキー法が制定され、1972年、CVCCエンジンを開発し、世界で初めてこれをクリアーしたのがホンダである。メルセデス等は、排気管にエアーポンプを付けることで、排気のCO2濃度を下げているが、これでは濃度は下がっても、CO2の総排出量は変わらない。物理学的に燃やすガソリン量が少なかったら、排気ガス中のCO2量は減るわけで、現在のマツダのリーンバーンエンジンがそうである。しかしガソリン濃度が低いと点火しにくい。濃いガソリン濃度の副燃焼室を作って点火させ、その火が主燃焼室の薄いガソリンを燃やすという原理にしたのが、CVCCエンジンである。

 そのころ本田宗一郎氏の講演が直接聞けるということで、日本各地の経営者を集めて、有馬温泉でセミナーが企画されたことがあった。高額のセミナ―料を支払った社長連中が、温泉に入り浴衣姿、大広間で本田宗一郎を待っていたら、彼は油まみれのつなぎ服で現れ、「皆さんは何をしているのか! 温泉に入って浴衣を着て、そして経営を学ぼうとは! あまりにも悠長です! 私は経営を学ぶためにこんなことをした経験はありません。そんなお金を使っている暇があるなら、早く会社に帰って自分の仕事を一生懸命しなさい! そのほうが経営の勉強になります」と、一喝したそうです。

 労働者階級で、一介の電気職人からスタートしたFHロイスも、バイク屋のオヤジから成功者となった本田宗一郎も、徹底した現場主義の人間であった。この点に於いて、ロールスは出資者で、スポーツマン或いはレーサーのイメージがあるが、カレッジ時代の「ダーティー・ロールス」というあだ名から考えられるのは、機械にも専門的な知識を持ち、のちにロイスの作った車の優秀性を認める地盤ができていたという事である。実際、17歳でケンブリッジの私塾に通学、トリニティ・カレッジ入学後は、機械学と応用化学を学び、最終的には21才で、ケンブリッジ大学を卒業する。

 1986、18歳の時パリに旅行、初めての車であるプジョー32/2hp フェートンを購入し、フランス自動車クラブに入会、スポーツモータリストの仲間入りをする。

 一般的にイギリスでは、上流社会の人間は背が高いと言われているが、ロールスは身長195cmの長身でしかも、スポーツ万能であった。

 そのころ、前々回記載したようにイギリスには「赤旗法」があり、車のスピードが極端に制限され、これが英国車の発展を妨げていた。若き日のロールスとその仲間たちは、当時は一般的ではないものの、ガソリン車のスピードが持つメリットは、将来必ず社会貢献すると見抜き、その悪法の廃止に向けて精力的に活動したといわれている。初期のそれは、ロンドン市内をわざとスピードを出して走り回るという稚拙な方法であった。彼らは警官に咎められたら裁判も辞さない覚悟であったが、当局はその社会的地位を知っているので、見て見ぬふりを決め込んでいたという。そして、赤旗法は1896年に完全に撤廃される。

 1899年ロールスは初めて国際的なモータースポーツにエントリーした。しかし、このパリ→ボローニャ間のレースで、彼は最下位であった。この屈辱的経験は、彼に様々なことを考えさせるきっかけとなった。第一に、英国内では名前の知られた貴族でスポーツマンであっても、その実力は大陸では通用しない事。第二に、自身の愛車が英国車でなく、フランス車であった事。

 続く1900年、ロールスは仲間と共にオートモービルクラブ・オブ・グレートブリテン・アンド・アイルランドを結成した。そして、そのクラブ主催の1000マイルトライアルに出場し優勝したが、その愛車もフランス製のパナール12hpであった。

 1903年、ロールスは、クラブ代表であり、無二の親友であるクロード・ジョンソンと共に、自らの会社:C.S.Rolls&Co.を設立し、優秀な車の輸入販売を開始した。機械工学を学び、実際に車を走らせてその性能を評価するロールスの目は確かであり、パナールとモールというフランス車に加え、ミネルバというベルギーの車も取り扱った。

 しかし、ロールスは「いつか自分の名前の付いた会社を作り、世界に通用する車を作りたい」という夢を抱いていた。

 

 さて次回は、チャールズ・スチュワート・ロールスと、フレデリック・ヘンリー・ロイスの出会い関して、記述したいと思います。

令和2年2月22日

林 英紀

5.ロールス1号車

 フレデリック・ヘンリー・ロイスが最初に購入するのにドコーヴィルを選んだのには、理由がある。この1902型、フランス車は直列2気筒、12馬力のエンジンを積んだ、当時としては最先端の車であった。この会社の1898に発売された最初の5馬力車は、ロンドン郊外のクリスタル・パレス・サーキットを舞台とした1000マイルトライアルへ挑戦、1902にはロンドンーエジンバラ間ノンストップランに成功、と耐久性の高さでは定評のある小型車であった。

 期待して購入したドコーヴィルだったが、ロイスはその性能に落胆した。特に未熟なエンジンと、トランスミッションがもたらす激しい振動は許しがたいものであった。ここでロイスは、得意分野である電気自動車の可能性を考えた。振動が少なく、乗り心地が良いことは確かで、実際に当時は様々な電気自動車が試作されていた。しかし、電気のインフラが整備されている街中での短い距離の移動には適していても、バッテリーの進化なしには長距離移動は出来ないものであった。多くの技術者が電気自動車に過大に期待をかけ、無駄な時間を費やしていく中、ロイスは早々と電気自動車に見切りをつけ、ガソリンエンジン車の将来性にかけることにした。ここに彼の天才である所以の分析力と、心の知能指数の高さからくる判断力の確かさが発揮される。

 共同経営者で社長のクレアモントは全く乗り気でなかったが、ロイスは、時間をかけて周囲の連中を説得し、長い間考えを練り、車造りにこぎつけた。

 ロイスは、ドコーヴィルの欠陥を徹底的に調べ、分析してその構造をもとに、エンジンそのものだけでなく、電気系統、気化器、変速機等に大幅に手を加えた。変速機は、フリーホイール機構(クラッチを切っても、変速ギアが自由に回転する機構)を採用し、操作を楽にした。エンジンは1800CC、2気筒、10馬力であるが、吸気側がOHV、排気側がSVの所謂Fヘッドであった。この時代、吸気側はピストンが下がるときに発生する、シリンダー内部の自然吸引力で作動する弁が多かったが、機械で確実に作動するメカニズムを採用するあたりは、信頼性を最重視するロイスの考え方そのものである。ラジエターは、冷却効率が良く空気抵抗の少ないハニカム構造とし、当時最も優れていたフランス、ㇾブ社製の霧吹きキャブレターを採用した。これは、当時、世界最高と言われたメルセデス35hpに匹敵する最新の装備である。しかも駆動系は、パナール社が先鞭をつけたFRで、トランスミッションは前進3速、後進1速であり、後輪にはデファレンシャルギア内蔵のフローティング・ライブアクスルと、小型車の割には耐久性を重視した造りであった。

 1904年4月1日、ロイスが40才の誕生日を迎えて間もなく、1号車が完成した。

 

 ロイスは自ら試作車に乗り、クックストリートの工場と自宅の間を往復する走行テストを始めた。この車は当時のどの自働車より扱いやすく、静かで、洗練されており、大成功であった。ロイスはこれで安心することなく、2号車をクレアモントに、3号車を大株主のヘンリー・エドムンズに託して走行試験を続けることにした。

 

 このエドムンズこそ、ロイスをチャールズ・スチュワート・ロールスに引き合わせるきっかけとなる人物である。

 

 さて次回は、チャールズ・スチュワート・ロールスの半生に関して、記述したいと思います。

 

令和2年2月18日

林英紀