昭和の車博物館、トヨタ館、天井根太、着々と
着物博物館、沖縄紅型⑩に、戻ります
1908生まれ。沖縄紅型、三宗家の一つ、城間家14代目。宗家とはいいながら、父の栄松が極貧で、13才で父の借金の肩代わりに年季奉公に出される。20才で年季明け、紅型の仕事にかかる。
栄松は、極貧の中、伝統の紅型2000枚は、売らずに残していた。しかし、栄喜が、制作に入り9ヶ月で栄松は亡くなる。
34才、大阪に染料を買いに行った所、そのまま航空機工場に徴用。
36才、招集を受けて、福岡の航空隊配属となる。
37才、妻ウシ戦死、石畳道を挟んで石垣に囲まれた赤瓦葺きの家が立ち並び、柳宗悦をして「日本一美しい城下町」と言われた、首里の街も焦土と化す。
昭和22年39才、学童疎開で熊本にいた、長男栄順と次男真勝を探しあて、瓦礫が山と積まれ、テントが立ち並ぶ、首里に帰る。栄松が残した、紅型2000枚は当然なく、大阪に持ち寄った紅型50枚が、全てであった。米軍に使われるのが嫌で、首里山川に建てたテントで、得意の釣りで釣った魚を売って暮らした。
ある時、紅型の古裂で縫われた、継ぎはぎのスカートを着た女の子に出逢い、跳び上がらんばかりに喜ぶ。その子家まで着いて行き鼻緒などになっている古裂を分けてもらい、道具さえあれば、紅型作りは再開できると、米軍使い古しの刃物など使い、道具作りから始める。
昭和27年頃より、次第に有名となり、画家などが紅型の勉強に訪れるようになった