鎌倉芳太郎作紅型の着物生地、です。亡くなって40年経ち、極めて寡作なので、滅多に見られないものです
試着してるのは、広島の事務長、笑。
一つ一つ、独自の模様!
鎌倉芳太郎
1889年 香川県三木郡氷上村出身
東京美術学校図画師範科卒業
東大教授、建築家の伊東忠太の指導受ける
沖縄の女学校の教鞭をとりながら、沖縄の美術工芸を研究
伊東忠太と沖縄の調査をはじめた1923、首里城が、3日後に、内務省により取り壊され、沖縄神社になるという新聞記事を見て驚愕し、2キロの道を走って、寺社建築、古社寺保存の権威であった伊東の元に駆けつけ、間一髪でこれを阻止した。
沖縄調査は、2度に渡り、鎌倉芳太郎は、写真4000枚、ノート81冊、紅型2000点、陶磁器67点を、本土に持ち帰り保存した。
鎌倉の写真無しには、戦争で全てが焼き尽くされた、首里城再建はならなかったとされる。
紅型は、琉球紅型3宗家の1つ知念家の、知念積昌より荷車いっぱいの型紙を譲り受け、実家の香川に持ち帰り保存し、貴重な資料となっている
これも着物博物館に展示しますので、皆様ご自由にご覧下さい
琉球紅型は、古来知念家などが中国の唐紙技法などから学んで、独自の発展を遂げたもので、琉球王国では士族以上
の階級の人しか身に着けられなかったそうです。
本土での、京紅型、越後紅型などは、それから出たものです。
1942、東京美術学校助教授となるが、1944退官し、染織家となる。
1973、人間国宝に認定される
1983、急性心不全で死去、84才
2005、彼の残した写真や資料が国の重要文化財に認定される
鎌倉芳太郎、初期の作品。伝統的な柄ゆき
これから、独自のデザインを発展させたのが、最初の写真。
その点では、琉球紅型から独自の柄を生み出し1956に、人間国宝に認定された、芹沢銈介氏に共通する所があります
1番伝統的な紅型で人間国宝に認定されたのは、紅型再興の最高の功労者、城間栄喜氏に師事した玉那覇有公氏、1996年と、少し遅い
さて、笹子島のサグラダファミリアは?
キッチン、バストイレユニット来ました。
ベランダ建前の準備。エンタシスの柱は、最初から差し込みます。
2階、耐震金具
さて、カリスマ整備士の室尾商会では?
錆錆だらけだった燃料タンクの修理
錆を浮かす薬入れ洗浄
次にこの液体入れると、下面がコーティングされ、錆が止まる。20万の新品部品取り寄せるより、安く付きます。
さすが、カリスマ整備士!
ベンツ450SEでした
そうそう
建具屋は?
明治の花嫁衣装博物館の巾木付け
これより、全然いいですね
ペンキ屋は、コンパネ剥き出し部のペンキ塗り、同じチャコールグレーに
てな訳で、全てのサグラダファミリアは、少しずつ進んでいます