1904年12月9日~25日に開かれた、パリ・サロン展に展示された数台のロールスロイスの内、コーチビルダー:ホランド&ホランドにより豪華なボディが架装された20phは、人々を魅了し、「エレガンス&コンフォート・メダル」を獲得した。これで、従来は取るに足らない物とされていた英国車が、世界の自動車メーカーに認識され、商業的にも大成功であった。
1905年1月、ロンドン中心部、リージェントストリートとコンジットストリートの交差点にショールームをオープンした。ここは、ロールスロイス社の作ったボディ・シャーシーに、どんなボディを袈装するか?顧客と細かい打ち合わせをする場所となった。第二次世界大戦後、自社でスタンダードスチールボディの製造を開始するまで、ロールスロイス社はエンジン・シャーシーのみを供給し、ボディは名門コーチビルダーが顧客の好みに応じて1台1台手造りするという、超高級車の方式を貫いた。当初このショールームでほとんどの顧客に勧められたのが、1710年創業、馬車の世界でも有名であった名門コーチビルダー:「ベーカー」の車体であった。
こういう記載をすると、「イギリスには歴史の長い老舗企業が多い」というイメージがあるが、実は現在、世界で老舗企業が一番多い国は日本なのである。創業200年以上の企業は世界41か国で5586社、そのうち日本は3146社と、全体の56%を占める。次がドイツの837社、オランダ222社、フランス196社、アメリカ14社、と続き、あとの国は10社未満である。因みに、筆者が社長を務める清酒「三谷春」を醸造する:林酒造(株)は1806年創業で、この中に入る。
イギリスの企業が10社もないのは、筆者も驚いた。記憶は確かでないが、20年ほど前はドイツに続いて300社ほどあったような気がする。イギリスは第二次世界大戦後、戦争に勝った為に膨大な借金を抱えることになった。しかも、戦後長く政権を支配した労働党は、「ゆりかごから墓場まで」という高福祉政策を取った。企業の設備が老朽化していた上に、この政策で若者の労働意欲も低下し、経済的になかなか立ち直れなかった。これに対し軍事政権が倒された日本は、100000%ともいわれるインフレにより、事実上借金は棒引き(1000兆→1兆円)になった。アメリカに食糧援助を受けるほど、国民すべてが数年間窮乏生活を送ることにはなったが、借金を引きずることなく、日本は驚異の経済復興を果たした。結果として戦争に負けて良かったのかもしれない。これは、ドイツにも言える事だと思われる。
近年、イギリスの景気が見違えるように良くなったのは、ロールスロイスがBMWに、ベントレーがVWグループに身売りされるなど、老舗企業の多くが外国資本に買収され、世界から多くのマネーがイギリスに集まったことによる。ロンドンの老舗デパート:ハロッズは、エジプト生まれでイギリスに帰化したアラブの実業家:モハメッド・アルファイドに1984年に買収されたが、この人こそ故ダイアナ元チャールズ皇太子妃のボーイフレンドとされる、ドディ・アルファイドの父である。モハメド・アルファイドは1972年にスコットランドの城と、その周辺の土地を購入、巨額の資金をスコットランドの観光開発事業に投入している。このように、イギリスは世界の投資を受け入れ、不景気から立ち直り、薄汚れたロンドンの街も、新しく美しい街に生まれ変わった。現在では、世界のお金持ちが集まる街となり、物価も高く、教育面でも、ケンブリッジ、オックスフォード大は、常にハーバード、MITなどのアメリカの超一流大学と難易度トップを争っている。
さて、ロールス卿は、車の宣伝効果として、レースで好成績を上げることが一番であると考え、様々なレースに出場して経験を積んだ。そして、1905年9月にイギリスのマン島で行われるツーリスト・トロフィーレース(通称TTレース)に、ロールスロイス車を出すことに決め、ロイスに頼んで2台の4気筒車に特別な改造をしてもらった。
このレースは、車の速さだけを競うレースではなく、経済性、信頼性、その他もろもろの性能の開発が目的であったため、大排気量車のオンパレードにはならなかった。しかるに、ボディは完全な4~5座席のツーリングカーのタイプでなければならず、レースにおいてはドライバー、整備士以外に大人4人分の重りを置いた。それに密かに決められた燃料制限もあった。しかしロイスはこのような制限は軽くクリアーする自信を持っていた。
ロイスは、他メーカーに先駆けて、軽くて強いニッケル鋼をシャーシーと車軸に採用していたので、重量制限は問題にならなかった。燃料消費に関しては、先進的な機構の「ロールスロイス」社製、気化器の製造・組み立てに細心の注意を払った。もともと機械的損失が少なく、燃料を食わない車であったが、ロイスは従来の3段変速に、オーバードライブを付けて4速とした。
レース当日の1週間前にマン島で練習が始まるまで、殆どの自動車通は、ロールスロイス車はこのレースで好成績を挙げるとは考えていなかった。ロールスロイスは静かで扱いやすい車であるが、スピードが出るとは思っていなかったからである。しかし、路面が悪く登り降りの激しい、1周83.7キロのコースを、ロールス卿はこのロイスが改造した20hp の4気筒車で、平均速度53.1キロ、リッターあたり燃費9.2キロで、練習走行を行ってみせ、人々の予想を覆した。
1905年の時点で、この「リッターあたり9.2キロ」というのは、筆者も驚かされる。筆者の所有する1950~2000年製ロールスロイスの燃費は、多くがリッターあたり3キロ位である。1938製V12気筒、排気量7.4リッターのファントムⅢに至っては、2キロである。この初期のロールスロイスがほとんど今でも走行可能なことを考えると、ロイスが当時造った車は、「100年、160万キロ走り、しかも燃費はリッターあたり9.2キロ」という、長い意味での超経済車であったと結論できる。
さて、主催者から燃料消費率が「リッターあたり7.98キロ以上」との発表があり、ロールス卿達の自信はさらに深まった。そうして、この2台のロールスロイスが参加して「TTレース」が始まった。しかし、ロールス卿は、興奮のあまり技術以上のことをして、2キロ余りで変速機を壊し、リタイアした。そこで、期待はもう一人のドライバー:ノージーの双肩にかかってきた。彼は慎重かつ冷静な走行を見せ、3周目にこの日最高のラップタイムをたたき出したが、「アロル・ジョンストン」に、平均時速0.3キロ遅いタイムで、2位となった。ロールス卿にとっては悔しい結果ではあったが、それまで無名の新しい自動車としては上出来であり、このレースはロールスロイス社の発展に大いに貢献した。実際、翌年の「TTレース」で、ロールスロイスは見事優勝を飾った。
さて次は、「不滅の名車、シルバーゴースト」の誕生について、記載したいと思います。
令和2年3月13日
林 英紀