フレデリック・ヘンリー・ロイスが最初に購入するのにドコーヴィルを選んだのには、理由がある。この1902型、フランス車は直列2気筒、12馬力のエンジンを積んだ、当時としては最先端の車であった。この会社の1898に発売された最初の5馬力車は、ロンドン郊外のクリスタル・パレス・サーキットを舞台とした1000マイルトライアルへ挑戦、1902にはロンドンーエジンバラ間ノンストップランに成功、と耐久性の高さでは定評のある小型車であった。
期待して購入したドコーヴィルだったが、ロイスはその性能に落胆した。特に未熟なエンジンと、トランスミッションがもたらす激しい振動は許しがたいものであった。ここでロイスは、得意分野である電気自動車の可能性を考えた。振動が少なく、乗り心地が良いことは確かで、実際に当時は様々な電気自動車が試作されていた。しかし、電気のインフラが整備されている街中での短い距離の移動には適していても、バッテリーの進化なしには長距離移動は出来ないものであった。多くの技術者が電気自動車に過大に期待をかけ、無駄な時間を費やしていく中、ロイスは早々と電気自動車に見切りをつけ、ガソリンエンジン車の将来性にかけることにした。ここに彼の天才である所以の分析力と、心の知能指数の高さからくる判断力の確かさが発揮される。
共同経営者で社長のクレアモントは全く乗り気でなかったが、ロイスは、時間をかけて周囲の連中を説得し、長い間考えを練り、車造りにこぎつけた。
ロイスは、ドコーヴィルの欠陥を徹底的に調べ、分析してその構造をもとに、エンジンそのものだけでなく、電気系統、気化器、変速機等に大幅に手を加えた。変速機は、フリーホイール機構(クラッチを切っても、変速ギアが自由に回転する機構)を採用し、操作を楽にした。エンジンは1800CC、2気筒、10馬力であるが、吸気側がOHV、排気側がSVの所謂Fヘッドであった。この時代、吸気側はピストンが下がるときに発生する、シリンダー内部の自然吸引力で作動する弁が多かったが、機械で確実に作動するメカニズムを採用するあたりは、信頼性を最重視するロイスの考え方そのものである。ラジエターは、冷却効率が良く空気抵抗の少ないハニカム構造とし、当時最も優れていたフランス、ㇾブ社製の霧吹きキャブレターを採用した。これは、当時、世界最高と言われたメルセデス35hpに匹敵する最新の装備である。しかも駆動系は、パナール社が先鞭をつけたFRで、トランスミッションは前進3速、後進1速であり、後輪にはデファレンシャルギア内蔵のフローティング・ライブアクスルと、小型車の割には耐久性を重視した造りであった。
1904年4月1日、ロイスが40才の誕生日を迎えて間もなく、1号車が完成した。
ロイスは自ら試作車に乗り、クックストリートの工場と自宅の間を往復する走行テストを始めた。この車は当時のどの自働車より扱いやすく、静かで、洗練されており、大成功であった。ロイスはこれで安心することなく、2号車をクレアモントに、3号車を大株主のヘンリー・エドムンズに託して走行試験を続けることにした。
このエドムンズこそ、ロイスをチャールズ・スチュワート・ロールスに引き合わせるきっかけとなる人物である。
さて次回は、チャールズ・スチュワート・ロールスの半生に関して、記述したいと思います。
令和2年2月18日
林英紀