7.ロールスとロイスの出会い

 ロイスが初めて造った2気筒10馬力の車、3台目のテストを委託されたヘンリー・エドムンズは、パーソンズ・ノンスキッド・タイヤカンパニーの代表として、この車をオートモービル・クラブ・オブ・グレートブリテン・アンド・アイルランド(RAC:ロイヤル・オートモービル・クラブ、の前身)が主催のテストに持ち込んだ。このテストの目的は、ようやく工業製品として認められ始めた自動車が、その性能を向上させるためにはどんなタイヤや、その他の付属品が有効かを確かめることであった。

 パーソンズのノンスキッドタイヤを付けてテストされたロイス車は、素晴らしい成績を修めた。そのテストドライバーの一人に、チャールズ・スチュワート・ロールスという若者がいた。

 レースに命を懸け、もともとスピードの出る車が好きであるロールスにとって、この非力な2気筒10馬力のロイス車は、興味の対象外であったはずである。しかしロールスは、人目を惹く先進性とか、驚異のハイメカニズムなどは何もなく、極めてオーソドックスな造りのこの小さな車に、大きな感銘を受けた。それは、ロールスの経験の中にある2気筒車のイメージを覆す、スムーズで確実な操作性と静かなエンジン音、快適な乗り心地であった。

 もともと機械工学に精通しているロールスは、ロイス車に乗り、細部まで行き渡った「エンジニアの良心」を見逃さなかった。

 

 ⑥で記載した本田宗一郎の話にまた言及するが、ホンダがまだバイク屋の店先に車を並べて売っていたころ、S600という2人乗りのオープンスポーツカーが発売された。当時日本では一流とされたスポーツカーである、プリンス・スカイラインGTBが2000ccで125馬力、トヨペット・コロナハードトップが1600ccで90馬力であったこの時代、ホンダS600は、600ccで57馬力であった。

 バイクで世界一になったホンダが4輪に進出する事を決定した時、本田宗一郎は「同じ4輪作るなら、世界一の車を作る」と決心し、車を作り始める前の1962年に鈴鹿サーキットを開設した。日本で初めて世界に通用するサーキットを作り、1964年にこの600cc57馬力の車を発売した事実は、ホンダが後にF1で無敵となる宗一郎の強い思いと、それ実現化させる為の周到な計画性を物語る。

 

 ロイスの車造りの特徴は、既存のメカニズムを見直し、不備な点に徹底的な磨きをかけ、信頼性を向上させるということであった。従って、極めてオーソドックスな造りでありながら、一つ一つの部品が細部に至るまで正確に加工されており、それに沿うよう職人たちも を鍛え上げられていた。 

 このオーソドックスという言葉に関し、筆者に連想させる言葉がある。

 それは、大阪大学の前身、適塾の始祖、緒方洪庵先生の言葉である。この人の門下生に、慶応大学を創設した福沢諭吉がいる。洪庵先生が、ドイツ医師フ―フェンフェルドの本を訳して「扶氏医戒乃略」という医師の心得を記載した額が、卒業生に配られる。その12箇条の一つに、こういう言葉がある。

一 学術を研精するの外 言行に意を用いて 病者に信任せられんことを 求むべし 然れども 時様の服飾を用い 譫誕の奇説を唱えて 聞達を求むるは 大いに恥じるところなり

 オーソドックスな治療が一番であるという意味である。

 

 ロイスの車の素晴らしさを知ったエドムンズは手紙を書き、ロールスに会いに行くように促したが、ロイスは相変わらず忙しく働いてばかりで、興味を持たなかった。そこで、1904年5月4日、エドムンズはロールスと連れ立ってマンチェスターを訪れ、ミッドランドホテルで、昼食を兼ねて初のロイスとの会談が実現した。

 ロールスはロイスの技術理論、豊かな経験、そして車造りに対する真摯な姿勢と人柄に、ロイスはロールスの理想を求める気高さと、その健全なビジネス哲学に、お互い感銘し理解し合ったのである。そこでロールスは、自分の「世界一の車をつくる」という夢を実現するためには、この14才年上、真面目一筋で技術的天才であるエンジニアの助けを借りることが、最善の道であることを判断した。そこで、ロイスが造った車は、ロールスの会社が一手に販売を引き受けることが決まった。

 ロールスと、ロイスの正式の契約は1904年の12月、会社の正式の設立は1906年3月である。

 

 さて次回は、ロールスロイスの車造りの発展について、記述したいと思います。

 

 令和2年2月27日

  林 英紀