6.チャールズ・スチュワート・ロールスの半生

 チャールズ・スチュワート・ロールスは1877年8月27日、ロンドン東部、メイフェア―地区、バークリー・スクエアにある豪華な屋敷で、ロード・ランガトック男爵夫妻の三男として生まれた。当時のイギリスは、上流階級と労働者階級が明白に分かれており、同国の資産のほとんどは王室、貴族が所有していた。このあたりが、何度も革命が起きて民主化したフランスと違うところである。

  バークシャーのモーティマー・予備学校に通ったのち、イートン・カレッジに入る。そこで彼はエンジンへの興味を持ち始め、いつも油まみれになっているので、「ダーティー・ロールズ」とあだ名をつけられた。

 油まみれと言えば、ホンダを一代で築いた本田宗一郎を連想させる。1970年アメリカにおいて、世界一厳しい排ガス規制であるマスキー法が制定され、1972年、CVCCエンジンを開発し、世界で初めてこれをクリアーしたのがホンダである。メルセデス等は、排気管にエアーポンプを付けることで、排気のCO2濃度を下げているが、これでは濃度は下がっても、CO2の総排出量は変わらない。物理学的に燃やすガソリン量が少なかったら、排気ガス中のCO2量は減るわけで、現在のマツダのリーンバーンエンジンがそうである。しかしガソリン濃度が低いと点火しにくい。濃いガソリン濃度の副燃焼室を作って点火させ、その火が主燃焼室の薄いガソリンを燃やすという原理にしたのが、CVCCエンジンである。

 そのころ本田宗一郎氏の講演が直接聞けるということで、日本各地の経営者を集めて、有馬温泉でセミナーが企画されたことがあった。高額のセミナ―料を支払った社長連中が、温泉に入り浴衣姿、大広間で本田宗一郎を待っていたら、彼は油まみれのつなぎ服で現れ、「皆さんは何をしているのか! 温泉に入って浴衣を着て、そして経営を学ぼうとは! あまりにも悠長です! 私は経営を学ぶためにこんなことをした経験はありません。そんなお金を使っている暇があるなら、早く会社に帰って自分の仕事を一生懸命しなさい! そのほうが経営の勉強になります」と、一喝したそうです。

 労働者階級で、一介の電気職人からスタートしたFHロイスも、バイク屋のオヤジから成功者となった本田宗一郎も、徹底した現場主義の人間であった。この点に於いて、ロールスは出資者で、スポーツマン或いはレーサーのイメージがあるが、カレッジ時代の「ダーティー・ロールス」というあだ名から考えられるのは、機械にも専門的な知識を持ち、のちにロイスの作った車の優秀性を認める地盤ができていたという事である。実際、17歳でケンブリッジの私塾に通学、トリニティ・カレッジ入学後は、機械学と応用化学を学び、最終的には21才で、ケンブリッジ大学を卒業する。

 1986、18歳の時パリに旅行、初めての車であるプジョー32/2hp フェートンを購入し、フランス自動車クラブに入会、スポーツモータリストの仲間入りをする。

 一般的にイギリスでは、上流社会の人間は背が高いと言われているが、ロールスは身長195cmの長身でしかも、スポーツ万能であった。

 そのころ、前々回記載したようにイギリスには「赤旗法」があり、車のスピードが極端に制限され、これが英国車の発展を妨げていた。若き日のロールスとその仲間たちは、当時は一般的ではないものの、ガソリン車のスピードが持つメリットは、将来必ず社会貢献すると見抜き、その悪法の廃止に向けて精力的に活動したといわれている。初期のそれは、ロンドン市内をわざとスピードを出して走り回るという稚拙な方法であった。彼らは警官に咎められたら裁判も辞さない覚悟であったが、当局はその社会的地位を知っているので、見て見ぬふりを決め込んでいたという。そして、赤旗法は1896年に完全に撤廃される。

 1899年ロールスは初めて国際的なモータースポーツにエントリーした。しかし、このパリ→ボローニャ間のレースで、彼は最下位であった。この屈辱的経験は、彼に様々なことを考えさせるきっかけとなった。第一に、英国内では名前の知られた貴族でスポーツマンであっても、その実力は大陸では通用しない事。第二に、自身の愛車が英国車でなく、フランス車であった事。

 続く1900年、ロールスは仲間と共にオートモービルクラブ・オブ・グレートブリテン・アンド・アイルランドを結成した。そして、そのクラブ主催の1000マイルトライアルに出場し優勝したが、その愛車もフランス製のパナール12hpであった。

 1903年、ロールスは、クラブ代表であり、無二の親友であるクロード・ジョンソンと共に、自らの会社:C.S.Rolls&Co.を設立し、優秀な車の輸入販売を開始した。機械工学を学び、実際に車を走らせてその性能を評価するロールスの目は確かであり、パナールとモールというフランス車に加え、ミネルバというベルギーの車も取り扱った。

 しかし、ロールスは「いつか自分の名前の付いた会社を作り、世界に通用する車を作りたい」という夢を抱いていた。

 

 さて次回は、チャールズ・スチュワート・ロールスと、フレデリック・ヘンリー・ロイスの出会い関して、記述したいと思います。

令和2年2月22日

林 英紀