3.ロイスの半生(起業期)

 フレデリック・ヘンリー・ロイスは、20才で起業した。前回の補足をすると、エレクトリックライティング&パワージェネレーションカンパニー時代は、1882~83年に施行された、ロンドンの街灯を電灯にする(それまではガス灯であったと思われる)という前例のない計画に携わり、その知識と技術を買われてヘッドハンティングされたランカシャー・マキシム・ウエスタン・カンパニーでは、リバプールの街灯化計画に於いては主任電気技師を務める。この会社は1年半で倒産、ロイスはそれまで貯めた20ポンドを元手に、「ロイス&カンパニー」を設立した。これは、大手電機メーカーにランプホルダーやフィラメントといったパーツを卸す会社であった。他文献では、「1884年、FHロイス&マンチェスター機械技師会社を設立、電動クレーンや発電機を製造する会社、を設立」となっているが、これは会社が発展してからの名称と、業績によるものであると思われる。

 この時FHロイスは、まだ弱冠20才であった。この時、エンジニア仲間で、裕福な医者の息子だった、アーネスト・アレクサンダー・クレアモントに50ポンド出資させて社長にしたが、技術面ではロイスが主導権を握っていた。

 1891年スパークが飛ばず耐久性も高い直流発電機と、直流電動機を開発、粉塵爆発に悩まされていた製粉工場や炭鉱などから多くの注文を受け、会社の経営は軌道に乗った。ここにセトライト氏がロイスを天才と賞する才能:①物事に対する好奇心➁不完全であることを認識する心➂どのような改良が可能か考える洞察力④実行に移す能力、が発揮されている。後にロイスの設計したエンジンが、きわめてオーソドックスな機構であった事より「彼には独創的な仕事が出来ない」等の諸説もあるが、それが誤りであることがここで証明される。また、上記に「耐久性も高い」と表現されているように、ロイスが100年160万キロ走る車を作ることになる要素が、ここに垣間見える。

 ロイスは1894に会社は新たな資本を募って増資、FHロイスは、ミニー・プントという女性と結婚、ナッツフォードに家を新築した。また、それまで人力に頼っていたクレーンを電動化し、その電動起重機がそのまま日本で真似されるくらい、その名は海外まで届いた。

 セトライトは「自社の起重機が日本でそのままマネされる名誉をうける大会社に成長した」と記している。この表現を見ると、明治維新(1867)から20数年後すでに日本の工業技術力は世界で認められていたことになり、日本の文明開化のスピードがいかに速かったかを想像させる。実際、屋井先蔵は1887年に世界で初めて液の漏れない乾電池の製作に成功、豊田佐吉による豊田式自動織機の発明も1895年である。

 のち、ロールス・ロイス社の社訓となる「正しくなされしこと ささやかなりしとも けだかし(ラテン語の日本語訳)」を自ら実行し、ロイスは、セトライトが「ロイスは一生夢中で働き世間と交流する時間はほとんどなかった」と記しているように、寝食以外は設計室と現場を往復するのみで、機械造りに専念した。この会社で、親友のクレアモントは、マネージメントの全てを行い、「FHロイス&マンチェスター機械技師会社」は上記の通り大会社となる。

 

 さて次回は、FHロイスが初めて自動車を購入し、自動車造りを始め、ロールス卿に出会う経緯について、記述したいと思います。

 

令和2年2月10日

林英紀記